児玉誉士夫の要請で上海で興行会社起業 淡谷のり子ら招聘
そこで、獄中で親しくなった野口進の存在が浮かんだ。甲子園球場や旧国技館など大観衆の前で試合を行った人気ボクサーにして、元首相を殺そうとした壮士である。この男なら、名前も腕力も申し分ない。興行会社を起業させるのに、これほど適任の男はいないと踏んだ。
かくして野口家が渡った上海は、第2次上海事変が一段落し、戦時中なのが嘘のように、比較的平和で自由な空気が横溢していたという。日本国内では、洋式の芸名を変えるように再三警告され、官憲に睨まれていたディック・ミネも、拠点を上海に移し気ままにジャズを歌った。淡谷のり子も早い段階から上海に拠点を移したと回想している。
実質的に切り盛りしていたのは、母の里野である。京都生まれ。家出して上京し、有楽町や神保町のカフェで働いていたところを野口進と出会い結婚、20代にして早くも波乱の半生を送っていた。そんな里野は頭脳明晰、公用語の北京語もいち早くマスターし、ギャラの交渉のみならず現地人とのやりとりも一手に担っていた。
この野口興行部は一見希少なように映るが、実はまったくそんなことはなかった。ルポライターの竹中労は著書「タレント帝国 芸能プロの内幕」(現代書房)で次のように定義している。