児玉誉士夫の要請で上海で興行会社起業 淡谷のり子ら招聘
〈いわゆる“芸能プロ”の発生は、日本の軍国主義が強大となり、満州、中国から、南方(東南アジア)、太平洋と戦火をひろげていく過程と見合っていた。軍の恤兵部から委託されて、戦地、もしくは軍需工場への“慰問団”を組織する芸能社が簇出した。(中略)
ブッキング・エージェント(出演契約代理業)としての“芸能プロ”は、軍国主義とともに興隆した〉
つまり野口家は、黎明期の芸能プロダクションそのものだったのだ。
昭和40年代に、キックボクシングで大成功を収めた野口修が、その余勢を駆って芸能界に進出したのは、畑違いでもなんでもなく、ある意味、原点回帰だったということになる。このとき野口修は4歳。「格闘技プロモーターの元祖」と言うべき彼にとって、物心ついて初めて興行と出合ったのは芸能だった。このことが後年の野口修に与えた影響はまったく無視できない。(つづく)