『ティル』がいよいよ公開…米国の残酷すぎる史実が劇映画化される意義と意味
『福田村事件』と同年公開は偶然であって、偶然ではない
7年後の1962年には、同年デビューしたばかりの若きボブ・ディランが事件を歌にした。その曲「ザ・デス・オブ・エメット・ティル」はセカンドアルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』(代表曲「風に吹かれて」)への収録が見送られたが、1963年夏のワシントン大行進(キング牧師の名演説「わたしには夢がある<I have a dream>」で知られる)のステージに立ったディランは、同曲を堂々とパフォーマンスした。公民権法が制定されたのは翌年1964年のこと。だが言うまでもなく、2020年代の現在もなお同根の悲劇は世界中で起こっている。つまり『ティル』は〈いま〉を描いた映画、〈いま〉だから実現した映画化でもある。100年前の関東大震災での流言蜚語による虐殺を描いた森達也『福田村事件』と同じ年に劇場公開されるのは、偶然であって偶然ではない。
学生時代にアメリカ黒人音楽に特化したライター業を始めたぼくは、卒論もブルーズとヒップホップがテーマ。もちろんこの事件の概要も知ってはいた。だが今回の映画を観て初めて気づいたことは多い。専門書の活字が立ち上がって人間にトランスフォームするさまを見届けるような、ぞくぞくとした体感。それを味わえるのは、史実が劇映画化される意義であり意味でもあるだろう。
監督と脚本はナイジェリア出身のシノニエ・チュクウ。1985年生まれの彼女の作品を観るのは初めて。奇を衒わぬ演出は物語を単調にさせる危険性も孕んでいるが、重量感を伴うテーマを130分で描ききる技量は並ではない。スパイク・リー『ブラック・クランズマン』でも抜群の冴えをみせたマーシー・ロジャースの衣装が鮮やかで、最後まで目を飽きさせないことも特筆しておきたい。
この映画が全米公開されてすぐの昨年11月、ぼくはNHK-FM「松尾潔のメロウな夜」で同作のサントラを紹介したが、そのときは日本での劇場公開を正直諦めていた。1950年代のアメリカ南部の憎悪犯罪(ヘイトクライム)に、どれだけの日本人が興味を抱くことができるというのか。ましてやウィル・スミスのようなスター俳優が主演を務めるわけでもない。長年アメリカ黒人文化に触れながら仕事をしてきた自分だからこその悲観があった。それだけに、劇場公開決定の報せには思わず声が出た。そして映画を観終えたいま、ぼくは嗚咽で声が出ない。