ひとつだけ、音楽と同じくらい大切にしてきたものがある。
開演時間が迫ってもいっこうに客が増える気配はない。「いまどきオンライン配信もないイベントなんてよ」評論家の愚痴はエスカレートし、ほぼ呪詛といって差し支えないほどの粘性を帯びはじめている。ぼくの慰めの言葉も尽きる寸前だ……その瞬間、ゴゴゴーッという地鳴りがして催事場がはげしく揺れた。これはもしかして――。
■その素性は見当がつく
平時ならともかく、夢分析のフロイトを持ち出すまでもないだろう。元日の夜、ぼくは寝る間際までくり返し地震関連のニュース映像を観ていたのだから。気になるのは評論家であり、イベントの行方である。のっぺらぼうではなかった気がするが、懸命に記憶をたどっても風貌をはっきりと思い出すことはできない。だがその素性は見当がつく。20代のころは音楽ライターを名乗っていたぼくの「ありえたかもしれぬ人生」だろう。沢木耕太郎のすぐれた映画評集のタイトルに倣って言うなら「使われなかった人生」か。
一介のブラックミュージック好きの若者だったぼくは、学生のアルバイト感覚で音楽専門誌に寄稿をはじめ、FMラジオの選曲、ディスクジョッキー、そして楽曲制作に関わるようになった。流れに逆らう舟のような航路は、むろん意図した結果ではない。すべてはなりゆき。半分言葉遊びでいうなら、〈なりゆき〉がそのまま〈なりわい〉になっただけのこと。ぼくが、若いころに耽溺したものだけでなく新譜を追いかける愉しみを今なお手放さないタイプの音楽ファンであることは、今年で足かけ15年のNHK-FM『松尾潔のメロウな夜』のリスナーならよくお分かりだろう。