市川中車が秘める“猿之助継承”の野望と「ゆくゆくは名跡を息子に」のシナリオ
「実に毅然としていましたね」と、あるタニマチ筋はこう言う。
「60年というのは、1963年に初代猿翁と3代目段四郎が相次いで死去したときのことでしょう。自分は微力と謙虚に言いながら、皆さんの意見に耳を傾けて、澤瀉屋が前を向いて歩いて行くとの決意表明でした」
年間興行収入80億~100億円とされる歌舞伎において、猿之助は集客力トップクラスの稼ぎ頭にして宝。事件後、46歳で歌舞伎界に入った中車がその代役となり、中心となって興行を支えてきたが、「顔じゃない」「中古車」などと、揶揄されることもあったという。体力も続かず、初日、千秋楽は入っても、会場の4割も埋まらない日も少なくなかったという。演劇担当記者はこう言う。
「本人も『中車はしんどい』と愚痴っていたというし、なかなか梨園に受け入れてもらえないこともあって、フラストレーションをためていた。それが銀座高級クラブでのホステス乱暴狼藉騒動へとつながっていったとの見方もありました。しかし、一門のピンチ、自分たちのピンチでもあるなか、猿之助と後進の指導でタッグを組んだのでは。おなじ一門とはいえ、パワーバランスなどもあって、関係は複雑とされてきましたけれども」