潜伏50年の桐島聡と週刊誌記者の「点と線」…1970年代の編集部はすごかった!
約半世紀もの逃亡生活を続けていた桐島聡容疑者(70)は、亡くなる前に「最期は桐島聡として死にたい」と、本名を明かしたという。
桐島は40年近く神奈川県藤沢市の土木会社に住み込みで働いていたそうだ。内田洋と名前を変え、「ウッチー」と呼ばれ、藤沢駅近くの飲食店に月1、2回通っていたという。
店のオーナーによると、「他の店で飲んだ後や銭湯の帰りに1人で来た。(中略)1960~70年代のロックが好き」(朝日新聞1月29日付)で、生バンドの演奏があると自らも盛り上げ、踊っていたという。
私は桐島についての記事を読み漁りながら、三菱重工爆破事件が起きた日のことと、1970年代の「週刊現代」の記者たちのことを思い出していた。
爆破事件(1974年8月30日)から数時間後、私は非常線をかいくぐって現場にいた。
入社4年目、週刊現代に異動して間もなかった。爆発で砕け散った窓ガラスの破片が道路を埋め尽くし、光の川のようになっているのをボー然と見つめていた。