早稲田中学・高校の強み 系列7校で異彩を放つ“一流進学校”
早大とは一線を画しながら独立して発展
前身の早稲田尋常中学が誕生したのは1895年。系列校の中では、もっとも古い。「多感な時期にこそ、しっかりした教育が大切」という早稲田大の創設者・大隈重信の理念に共鳴した作家の坪内逍遥、ジャーナリストの市島謙吉、哲学者の金子筑水らによって設立された。
以来、大学とは一線を画し、独立した存在として発展した。早稲田大の系属校となったのもそれほど昔ではない。1979年のことである。
「早稲田大が創立100周年を迎える82年を前にして、グループの緊密化を図る動きがあった。そうした中で早実を附属校、早稲田中学・高校を系属校にして、将来はこの2校を合併させようという案が出ていたんです。これに強く反発したのが早稲田中学・高校の関係者たちです。今まで守ってきた自主独立路線が壊されてしまうのではないかと危惧したのです。ただ、緊密化にまったく貢献しないわけにもいかない。結局、系属校になることだけは受け入れたのです」(前出・早稲田大教授)
■そもそも内部推薦枠がなかった
そうした変革を経て、早稲田高校でも82年から早稲田大への推薦枠が設けられた。逆に言えば、それ以前は早稲田大に優先的に入学できる道筋はなく、同大に進むとしても普通に受験する必要があったのだ。70年代に在学していたOBはこう振り返る。
「私の場合は一橋大商、早稲田大の政経と商、慶応大経済を受けました。政経を除き合格し、結局、一橋大に入りました。もし、その当時、早稲田大への推薦枠があれば、どうしていたか。たぶん、使わなかったんじゃないかな。そもそも、早稲田の校風に憧れて、早稲田中学を受験したというわけではないですしね。単純に、進学校として早稲田中学・高校がいい学校だと思ったから選んだんです」
申し分ない大学受験実績を残してきた早稲田中学・高校だが、そこに何か特別な秘密があるわけではないという。学校関係者は次のように説明する。
「推薦枠を使わずに受験する生徒に対し、別クラスを設けて対策をとるというようなことは行っていません。大学受験、さらには大学入学後の授業にもついていけるだけの学力がしっかりつくように、カリキュラムを組んでいます」
■早大理工学術院の施設を借りた高レベルの実験
主要科目の大半は他の進学校とそれほど内容が変わるわけではないが、突出しているのは理科。実践に重きを置いている。夏休みや春休みには早稲田大の理工学術院の施設を借りて、「他校では真似ができないようなレベルが高い実験を行う」(同)のだという。
「もうひとつ、自慢できるのは家庭科。家政科大学並みの調理設備を持っていて、本格的な料理も作ります。カレーは市販のものは使わず、香辛料を自分たちで調合する。理科と同様、体験することを重視しているのです」(同)
学校行事も実践的なものが多い。注目は半世紀以上も続く「利根川歩行」。利根川の上流から犬吠埼灯台までの約150㎞を中1~高3までの6年をかけて完歩する。ゴールにたどり着いた時の達成感はかけがえのない経験だ。
■気がかりなのは生徒の守りと妥協の姿勢
「他の早稲田グループとは異なる独自の世界を創り上げてきた早稲田中学・高校ですが、最近、守りの姿勢が目立っている」
こう指摘するのは、前出とは別の50代後半のOB。違和感を覚えているのは、早稲田大推薦枠の使い方についてである。16年130人(推薦定員169人)、17年147人(169人)、18年138人(169人)、19年152人(169人)、20年164人(167人)と推移している。
「学部ごとに定員があり、人気にばらつきがあるので、通常は枠を使い切ることはない。ところが、ここのところ、定員近くまで埋まっている。これは生徒の側に、『早稲田大ならいいや』と妥協する姿勢があるのと、自分が何をやりたいのか、18歳にもなってまだ見えていないからだと思う」
このOBは早稲田大への依存度が強くなっている傾向を嘆く。
「私がいたころの推薦枠は全部で50人程度。さすがにそれはすぐに埋まったが、受験して自ら道を切り拓きたいという生徒のほうが圧倒的に多かった。でも今は、そうした進取の気性は失われ、早稲田大に飲み込まれる形で、早稲田中学・高校としての世界観が急速に薄れつつある気がする」
早稲田グループの中では、大学に次ぐ歴史を持つ早稲田中学・高校。そのプライドだけはいつまでも失わないでいてほしいものだ。