厳しかった親父の愛のムチ
「エラーしたあとのあの態度はなんだ!」
バチン。
「なぜ最後までボールを追わなかった!」
ガツン。
「おまえ一人で野球をやってんじゃないぞ!」
ボコッ。
そんな感じでしたから助手席で親父の説教に生返事を繰り返しながら、「青になれ」「赤になるな」と先の信号を見ては念じていました。歩行者用信号が点滅したときは、親父の右足に向かって「アクセルを踏め」と念を送ったほどです。
今となっては「愛のムチ」と感謝できるそんな親父の厳しい指導もあって、自分で言うのもなんですが、小学校6年のときには4番でピッチャー、大阪でもそれなりに名が通る選手になりました。
上宮高校への進学が決まったのも、実は中学2年のときです。上宮のコーチだった田中秀昌さん(のちに上宮監督=現近大監督)に評価してもらい、声をかけていただきました。同時にちょうどジュニアホークス出身の先輩がセンバツ甲子園に出場し、「一緒にやろう」と誘われたのです。当時は大阪の高校といえば、PL学園と浪商(現大体大浪商)くらいしか知りません。中でも清原和博さん、桑田真澄さんが高校3年になったPL学園の全盛期。ボクも大阪予選から試合を見にいっては、「あっ、桑田や」「おっ、清原、でけえ」とスタンドで興奮していたクチです。