差別する軍人に「朝鮮人も日本人も同じ人間ではないか」
平和の祭典
そんな戦没オリンピアンを終生敬い、弔っていたのが32年ロス大会・陸上競技三段跳び銅メダリストの大島鎌吉だ。
敗戦から37年後の82年7月だった。ドイツ語に堪能な大島は、36年ベルリン大会が開催されたオリンピックスタジアムに置かれる「平和の鐘」の台座に、不戦のシンボルとして世界の戦没オリンピアンの名前が刻印されるという情報をキャッチ。当時判明していた30人の日本人戦没オリンピアンの名簿をベルリンに持参し、23カ国250人の戦没オリンピアンとともに、彼らの名が刻印されたのだ。
「跳ぶ哲学者」「東京オリンピックをつくった男」と称される大島鎌吉は、いかなる人物なのか――。
こんな実話がある。36年のベルリン大会で大島は、日本選手団主将を務める。その開会式のときだ。マラソンで金メダリストになる孫基禎たち朝鮮人選手を見て、軍人である馬術競技選手が大島に詰め寄り、声を荒らげた。
「帝国陸軍の軍人が、朝鮮人と一緒に行進できるか。どうにかしろ!」
それに対し、主将の大島は泰然とこう言った。
「オリンピックは平和の祭典だ。朝鮮人も日本人も同じ人間ではないか。不満なら立ち去ればよい」
関西大学卒業後に大島は、毎日新聞社に入社。39年9月から45年夏の敗戦までドイツ特派員としてベルリンに滞在し、ヨーロッパ戦線を取材。ヒトラーに単独インタビューをする一方、各国のオリンピアンと旧交を温めた。
敗戦後の大島は「俺は死にぞこないだ。何でもやってやる!」と自ら叱咤。毎日新聞運動部記者として活動し、オリンピック関係本も翻訳・出版している。さらに59年4月には、64年東京オリンピック招致活動のために渡欧。とくに共産圏の東欧諸国の票集めに奔走し、成功に導いている。
そして、64年東京オリンピック。選手強化対策委員長として「金メダル15個以上獲得!」を掲げ、日本選手団団長に就任。
10月10日の開会式の入場行進のときだ。先頭を行く大島鎌吉は、ポケットに亡きオリンピアンの遺影を忍ばせていた……。
(つづく)
▼おおしま・けんきち 1908年、石川県生まれ。関西大学卒業後に毎日新聞入社。元三段跳び世界記録保持者。五輪関係本を多数出版している。64年東京五輪日本選手団団長。