1932年福岡県生まれ。早稲田大学文学部ロシア文学科中退。66年「さらばモスクワ愚連隊」で小説現代新人賞、67年「蒼ざめた馬を見よ」で第56回直木賞。76年「青春の門 筑豊篇」ほかで吉川英治文学賞を受賞。2002年には菊池寛賞、09年NHK放送文化賞、10年毎日出版文化賞特別賞を受賞。本紙連載「流されゆく日々」は16年9月5日に連載10000回を迎え、ギネス記録を更新中。小説以外にも幅広い批評活動を続ける。代表作に「風に吹かれて」「戒厳令の夜」「風の王国」「大河の一滴」「TARIKI」「親鸞」(三部作)など。最新作に「新 青春の門 第九部 漂流篇」などがある。
オリンピックに思う近代五輪の終焉
今回の東京五輪で何かが変ったと感じるのは、私だけだろうか。
夏空に回転するスケートボードの少年少女たちの演技を見て、近代五輪は終ったと、はっきりそう思った。
パリ五輪では新たにブレイクダンスも加わるという。これらを都市型スポーツと呼ぶらしいが、要するにストリート系だ。
聖火に象徴される「神聖」とか「偉大な」とかいった感覚とは真逆の世界である。ジャズがカーネギーホールで演奏されたときの衝撃も、こんなふうだったのかもしれない。近代五輪は、いわばスポーツのカルチュアだった。そこへサブカルチュアが軽やかに登場してきたのだ。レニー・リーフェンシュタールが映像化した国家的プロジェクトとは無縁の遊びである。
そこに登場するプレイヤー(アスリートよりもこのほうがふさわしい)の名前を見てみよう。西矢椛(モミジ)、中山楓奈(フウナ)、西村碧莉(アオリ)、都筑有夢路(アムロ)などなど。キラキラネームの時代を超えて、これが現代五輪のスターたちである。私たちの時代の記憶に残る名前は円谷幸吉だったことを、しみじみ思う。
しかも13歳の西矢選手、同じく13歳のライッサ・レアウ選手、16歳の中山選手など、10代のティーン・エイジャーが勢揃いではないか。今回、女子ストリートで決勝に進んだ8人のうち5人が10代なのだ。
彼らの技は偉大な指導者の熱血指導によって磨かれたのではない。遊び仲間同志の競い合いやアドバイスによって、向上を楽しみながら育ってきたのである。根性ではなく友情によって磨かれた技術なのだ。涙をこらえて必死で「楽しみます」と誓うのではなく、面白いからやっているプレイヤーたちなのだ。
今回、近代五輪に深い亀裂がはいり、新しい現代五輪が胎動するのをはっきりと感じた。
新たな現代五輪は、年齢別に4階級制にするべきではないだろうか。少年、青年、成年、高年の4ブロックにである。
高齢化は世界の趨勢だ。50歳以上は黙って見物しておれ、といわれても、黙っているわけにはいかない。高齢アスリートが、トラックやプールで活躍してこその五輪だろう。
国別ではなく、世代別の選手団が、開会式で入場するときのシーンを想像すると胸が躍る。
80代でもスポーツをやる権利はある。スケボーだって、少年少女に教えられれば夏空に舞えるだろう。いずれにせよ、近代オリンピックは終った。