センバツ優勝を呼び込んだ吉田監督と健人部長の情熱 「横浜野球」伝授には丸3年かかった
吉田監督が初出場だった清峰を率いて勝ち上がってきた06年のセンバツ決勝で、私が部長を務めていた横浜と対戦。横浜が21-0で優勝した時からの縁だ。共通の知り合いである城北(熊本)の末次敬典監督(現・八女学院監督)が推薦してくれたことで、18年8月に臨時コーチとして呼ばれた。「選手はもちろん、(監督の長男)健人をいい指導者にするために野球を教えてほしい」が理由だった。
■「小倉野球」と書かれたノートを手に…
健人部長は清峰から山梨学院大で学生コーチを務めた後、20年に同校の部長に就任。今では「鬼部長」として打撃、守備、走塁などを指導。普段の練習メニューを考案したり、練習試合の手配なども行っている。
私が定期的に同校の寮で寝泊まりすると、健人部長は朝練、昼食、練習中、夕食、夜の10時ごろに就寝するまで私のそばから離れない。一言も聞きもらさないといった姿勢で、守備のポジショニングから、戦略、戦術まで事細かく「小倉野球」と書かれたノートに書き込んでいた。聞いたことを全て自分のものにしようとする熱意は相当なものだった。