「ミスターアマ野球」が私のベッドの上で突然嘔吐…史上初プロアマ混合チームの思い出
日本は、公開競技だった1984年ロサンゼルス、88年ソウルの2大会を含め、5大会連続の五輪出場となった。
■各球団で選手を出すか否か、議論が紛糾
最終戦は韓国に3-5で敗れたものの、プロが派遣された大会で出場権を逃すようなことになれば日本に帰れない。誰もがそう思っていたプロ組は安堵した。古田敦也さん(ヤクルト)は予選を戦い終え、「負けたら、惜しかったで済まされない。プレッシャーはあった。オリンピック(本番)では松坂君が(予選では敗れた)韓国をやっつけてくれるでしょう。僕もレベルアップしてシドニーでも選んでもらいたい」と意気込んだ。
これはプロ8人の総意だったが、当時「最強捕手」の呼び声高かった古田さんがシドニー五輪に参加することはなかった。
五輪本番の9月はペナントレースの真っ最中。シーズンを中断する予定はなかったから、各球団で選手を出すか否か、議論が紛糾した。その結果、予選とは大幅に変更となり、私も五輪のメンバーには選ばれなかった。プロで予選と本番の両方に出場したのは松坂大輔(西武)と松中信彦(ダイエー)の2人だけだった。
五輪は韓国との3位決定戦に敗れ4位。メダルを逃したことで、選手を出し渋った球団が批判され、4年後はオールプロ編成で五輪に挑むことになる。(つづく)