「徘徊自動症」と名づけた途端、症例報告が増加
「マッド・トラベラーズ」イアン・ハッキング著、江口重幸ほか訳 岩波書店 5400円+税
アーシュラ・K・ル=グウィンの「ゲド戦記」には、真(まこと)の名というのが出てくる。この真の名はみだりに知られてはならない重要なもので、物語の重要なキーとなっている。このように名前、名づけは極めて重要で、それまで曖昧だったものが名づけることで初めて形を成し、存在することになる。本書は19世紀のフランスを中心に流行し、「徘徊自動症」と名づけられた精神疾患について考察したものである。
1887年、フランスのボルドーにある病院に、アルベールという26歳の男が収容されていた。彼はしばしば旅への衝動に駆られ、そうなると仕事も日常生活も放棄して欲望の赴くままに歩き出してしまい、時には1日に70キロも踏破し、旅の間のことは記憶にない場合も多い。そんな彼を診た医師のティシエは彼の症状を「徘徊自動症」と名づけ、診断可能な精神疾患としたのである。
すると、ヨーロッパ各地で同じような症例がいくつも報告され、一種の流行のようになった。ところが不思議なことに、20世紀の初頭には忽然(こつぜん)と消えてしまう。そこで著者は、こう問う。この疾患は果たして実在したものなのか、と。そして、「徘徊」に関連するツーリズムなどの社会的・文化的な要素を精査し、当時の精神医学界においてこの症状がどのように扱われていたのかを跡づけ、なぜこの徘徊自動症が突然出現し、またたく間に消えてしまったのかを解明していくのである。
著者は「記憶を書きかえる」で、多重人格症(解離性同一性障害)も同様に一時的な流行のもとに名づけられたもので、独立した疾患とすることに疑義を呈している。知られるように、精神医学の世界では、かつての分裂病は統合失調症に、そううつ病は双極性障害と名前が変更されている。「こころ」という広大な宇宙の中から、その真の名を見いだすのはなかなかに難しいようだ。 <狸>