平安時代の宮廷医が朝廷に献上した医学全書
「『医心方』事始」 槇佐知子著 藤原書店/4600円+税
シャンポリオンのロゼッタ・ストーンの解読に至る物語は、ミステリーの謎解きのような知的興奮に満ちているが、我が国最古の医学全書である「医心方」の解読もまた困難を極め、著者が40年の歳月を費やし、2012年、全30巻全33冊の完訳がなされた。本書はそのダイジェスト版であり、全体像を紹介しながら個々の内容を簡潔にまとめたもので、文章の端々には現代語訳にあたっての苦心が語られる。
「医心方」は、平安時代の宮廷医・丹波康頼が朝廷に献上した医学全書で、有史以来9世紀までに書かれた医書を集めて撰集・編纂したもので、医学・薬学史のみならず考古学、民俗学、動植物学、鉱物学などあらゆる分野の資料の宝庫であり、江戸時代に復刻された半井本(なからいほん)は国宝に指定されている(それに携わった一人が森鴎外が評伝をものした渋江抽斎だ)。
ただし、そこに出てくる文字は、異字、動字(偏と旁〈つくり〉の位置が動いている)、省画(偏や旁の一部を省略)、増画(逆に付け足す)、音通(密と蜜のように音が同じものに入れ替える)といったさまざまなからくりが仕掛けられている。なぜかといえば、書かれている処方や薬剤を心ない者が乱用しないように難解な文字によって封印したのである。それゆえ、明治末に刊行された活字本は間違いが多く、おまけに28巻の「房内篇」に性の技巧が含まれていることから検閲に引っ掛かり発禁処分となった。以来、「医心方」は性愛の書だという誤解が流布してしまった。
こうした偏見を廃し、困難な文字の解明に取り組み、アジア全域からアフリカにまで及ぶ広範囲な古代の動植物名を同定していく作業は、想像するだけでも気が遠くなる。この全貌を明らかにしたことは、シャンポリオンがヒエログリフの文字体系を解明することで古代エジプト研究が飛躍的進歩を遂げたことに匹敵するほどの偉業だろう。
<狸>