「お城の値打ち」香原斗志著/新潮新書(選者:中川淳一郎)
お城にまつわる疑問が解消されるが同時に嘆きも
「お城の値打ち」香原斗志著/新潮新書
筆者は佐賀県唐津市在住だが、歴史通の翁と飲みに行くと力説されることがある。「唐津城はあかん。しょせんはコンクリート城じゃ。あげな形ではなかった」というものだ。「現存十二天守」という言葉があり、木造で建立時の姿を残している貴重な天守閣のことだが、唐津城はこの中には入っていない。「復元天守」「復興天守」ですらない。
とはいえ、「あかん」とまで言わないでいいのでは、と思った。
元々日本には3万以上の城があったという。そのうち1~2%に「天守」があったそうだ。多くは堀はあるものの、砦や館がある要塞として機能したわけで、権力と支配力の象徴たる天守があるのはレアだったのだという。
こうした城に関する基礎知識が得られるほか、なぜ今や城がここまで少なくなったのか、そして歴史通の翁が嘆くような事態になったのかが具体例とともにあげられる。
城が減った理由については、反乱や侵攻の拠点になることを恐れた徳川政権による一国一城令が大きい。あとはB29が日本の主要都市を焼夷弾で焼きまくったことが原因だ。そしてその都市で一番高い建築物であったことから落雷による火事での消滅も多かったようだ。
また、城といえば関東や東北よりも西日本に多いイメージがあるが、その理由も面白いし、納得できる。関ケ原の戦い(1600年)から大坂夏の陣(1615年)の間は「空前の築城ラッシュ」と表現されている。関ケ原の戦いでは豊臣秀吉に重用された大名が家康の東軍勝利に貢献したが、これが関係している。
〈その結果、一国以上の領地を手にして国持大名になったという例も少なくなく、彼らは拡大した領地に見合うように城を新造したり大きく改修したりした。こうした豊臣系大名たちの多くは、領地を加増される代わりに中国、四国、九州など西日本へ転封になったケースが多かったため、西国を中心に、多くの大城郭が出現することになったのである〉
さらに、この頃豊臣秀頼は大坂に健在で、家康の寿命が尽きた時に再び乱世になる可能性はあり、それに備えるべく各大名は築城をした、という解説だ。
また、観光資源として活用したい全国のさまざまな都市が目先のウケを狙い、元々あった歴史的背景や実態とは異なる城を造りまくったさまも描かれる。小倉城、小田原城、岡崎城、岸和田城、浜松城など。こうした知識を得ると冒頭の歴史通翁の嘆きも理解できるようになる。 ★★★