山川豊さん B面に吹き込んだ「おんなの宿」で念願デビュー
「函館本線」の歌い方を巡って七転八倒
発売は1年後。クラシック出身の東芝の花田正彦がディレクターとしてついた。
「この人がややこしくてね。クラシック出身だから、コブシを回すと『そんなものは譜面にない』とダメ出しする。僕が『自然なものでしょ?』と言っても、『ないものはない』と取り合ってくれない。途中で別のディレクターに代わったら、花田さんとはまったく違うことも言われ、1年間、悩み、苦しんで七転八倒しました。本当にパニックになった。花田さんのことは恨みましたね(笑い)。結局、最終的にはレコーディングが済んでプレスするために工場に回した後に、『最後にもう一回、気軽に歌ってみようか』と言われて歌ったのが一発OK。ノー編集でプレスされることになった。それまでの重圧から解放されて肩の力が抜けたのがよかったのかな。後で曲を聴いてみると、コブシがまったく回っていなかった。コブシを抜くこととの闘いだった1年。花田さんのおかげで山川節ができ、今があるんだと思います。もしコブシを回す歌い方ならアニキ(鳥羽一郎)とかぶっていたんじゃないかな」
「おんなの宿」から「函館本線」へのつながりも感じていた。コブシを使わない歌い方は「おんなの宿」が原点だった。
「大下さんの『おんなの宿』を聴いてみると、コブシが回っていないんだよね。コロコロ回すというのではなく、大きく回す歌い方とでもいうのかな。テクニックでうまく歌うのとは正反対な気がします。仙十郎さんは僕が歌う『おんなの宿』を聴いて、広い音域を大きく歌える可能性を最初に感じ取ってくれたのかもしれない。『函館本線』は実は難しい歌で、アルバムに入れているのは村田先輩と渥美二郎さんだけなんです」
村田は「函館本線」への思い入れが強かったのか、かわいい後輩のためにNHKの生放送に出演した際も歌って応援してくれたという。
同時期のデビューは近藤真彦、沖田浩之、堤大二郎ら。演歌でヒットしていたのは、山本譲二「みちのくひとり旅」、竜鉄也「奥飛騨慕情」だ。
「期待されていましたからね。テレビ局の人も、会社の人も『デビューするのか』『頑張れよ!』と一丸となって応援してくれた。僕も負けていられないから、寝る間もないくらい全国を飛び回りました。当時、譲二に『どこに行っても“函館本線”のポスターが張ってあるんだよ』と言われたかな」
故郷を出てデビューまで3年。それまでは表立った活動もなく、田舎では「そういえば、お宅のところの息子はどうした?」と言われ、両親に心配をかけていた。故郷に錦を飾ったのは数カ月後。ステージ付きのバスで回ったら町を挙げて応援に駆け付け、母親には花束を渡されたが、あまりの騒ぎで一言二言、言葉を交わすのが精いっぱいだった。
その後も、90年「しぐれ川」、92年「夜桜」、98年「アメリカ橋」とヒットを重ねた。86年には「ときめきワルツ」で紅白歌合戦に初出場、鳥羽との兄弟出場も果たし、紅白には11回出場している。
「令和になり、スマホの時代になって、演歌もインパクトをもっと意識してつくっていかないといけないんじゃないかな。僕の曲でいえば『アメリカ橋』。やはりコブシを回さない難しい曲です」
(聞き手=峯田淳/日刊ゲンダイ)
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