アフガン選手らはパラ出場を断念…“自由”というのがいかに大事か今、誰もが思い知っただろう
タリバンに支配されたアフガニスタンの選手らはパラリンピック出場を断念し、開会式じゃ国連関係者ら2人だけが国旗を持って行進した。しかし、NHKの中継放送の司会者はそんな事態をちゃんと伝えなかった。入場は断念したが、選手2人が祖国から脱出してオーストラリアに入国できたと、どうしてそれだけでも解説フォローしてあげられなかったのか? これこそが世界の現実だろうが。心のない放送だった。
自由を奪われて1年半以上も経つ。どこにでも出歩いていた日々が懐かしい。“自由”というのがいかに大事か、今、誰もが思い知っただろう。フリーダムでもリバティーでもいい。あえて言うなら、FREEDOMか。誰にも止められない、言いたいことを言い、やりたいことをやる自発的な権利やパワーのことで、もちろん権力からの自由ということだ。規制や束縛や負担や義務や犠牲や心配や何からもオレはFREEなんや! というオックスフォードの辞書みたいなことを授業のように教えられたのは、気ままなバイク野郎の映画「イージー・ライダー」だった。映画館に日課のように行っていたころだ。
1968年から70年にかけて、人生で最も多感な高校生の我らはアメリカ映画にかぶれっ放しだった。見るもの何でも勉強で、何でも面白くてシブくてカッコイイ生きざまの主人公ばかりだった。日本の邦画はさして見るものがなかった。森繁久弥主演の「社長シリーズ」では何でもテキトーで気が弱く、大株主にへつらう雇われサラリーマン社長が主人公で、戦争体験の話一つもしない人間らしくないそんな大人がいる会社なんかに誰が勤めるかとバカにしていたもんだ。加山雄三の「若大将シリーズ」もただの調子のいい、金に困っていない幸せ顔の東京の私立大学生が出てきて、見ただけで蹴とばしてやりたかった。どれもこれもが能天気で、生きているリアリティーがなく、風俗描写もうさんくさかったのだ。