五木ひろしの光と影<7>全日本歌謡選手権はうるさ型の審査員が切って捨てるのが売りだった
「そば屋の兄ちゃんと美空ひばりが戦う」という奇抜な番組コンセプトが受け、「全日本歌謡選手権」は毎週、25%以上の高視聴率を叩き出していた。番組の企画立案者である読売テレビの敏腕ディレクターの斉藤寿孝は、2年後の1972年に読売テレビを退社し、IVSテレビ株式会社を設立する。「びっくり日本新記録」や、現在も続く「鳥人間コンテスト」(いずれも読売テレビ)。「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」(日本テレビ系)や「ちょっと待ったー」などの流行語を生み出した「ねるとん紅鯨団」(フジテレビ系)など多くの視聴者参加番組を世に送り出している。それらの源流にあるのが「全日本歌謡選手権」だった。
しかしである。「リアリティーショーのはしり」とはいえ、実際に勝ち抜いたらデビューさせるわけで「やすやすと芸能界の切符を渡すわけにいかない」という心積もりも当然あった。そこで、淡谷のり子、浜口庫之助、船村徹、竹中労(ルポライター)、小池聰行(オリコン社長)という、うるさ型ばかりを審査員に据えた。彼らが出場者を厳しく切って捨てるというのが、番組の売りのひとつになっていた。隔週で出演していたのが、当時はまだ中堅どころだった平尾昌晃である。鈴木淳と山口洋子も隔週審査員だった。彼ら中堅審査員は大御所に気兼ねすることも多かった。それでも番組は大人気で、視聴率は25%を超え、抽選会には応募者が殺到した。
そんなある日、一人の青年が応募してきた。弾き語りで生計を立てていた三谷謙だった。 =つづく