わからないことを受け入れる「ネガティブ・ケイパビリティー」こそが大切
今回はこれまでの議論を一度整理してまとめてみたい。内容的にはかなり専門的であるし、統計学的な考え方が基礎にないと理解が困難だろう。ただ問題は専門的な知識でもなく、統計学的な考え方でもない。それらを武器に考え続けることができるかどうかである。何か結論を出すためではなく、結論を先送りにして、何がわかっていないか、何がわかっているのか、問い続けることである。
このところの本連載では、コロナ感染に対するマスクの効果を検討した論文を例に、情報そのものの正しさについて検討してきたが、最も重要なことのひとつは、「正しさ」と言っても、正しいか正しくないかという二分法では決して語ることができないということである。ランダム化比較試験の結果であろうが、そのメタ分析の結果であろうが、あいまいである。
統計学的に有意差があるかどうかの検討の際に標準的に使われる有意水準5%(「有意」とは「統計的に偶然とは考えにくく、意味があるものと考えられること」を指し、「有意水準5%」とは100回に5回以下しか起こらないまれな事象が起こったことは、偶然起きたことではないということにしようという意味)という基準で判断すれば、はっきりするように思われるかもしれない。しかし、そもそもその5%の基準も根拠があるわけでなく、あいまいな基準に過ぎない。