焼肉の日(8.29)に話したい「ブランド牛のウンチク」…名君と米沢牛の切っても切れない関係
その興譲館で明治4年(1871)から8年(1875)まで教鞭をとったのが、米沢牛を広めた立役者チャールズ・ヘンリー・ダラス氏(1842-1894)です。米沢牛の恩人とも言われ、米沢市に2021年、「C・H・ダラス通り」も誕生しています。ダラス氏が故郷を懐かしんで四つ足の動物は食べないとされた米沢の地で、牛肉を食べたのが食用としての米沢牛のはじまりです。
その味わいにいたく感動したダラス氏は任期を終え、米沢を離れる際に一頭のメス牛を横浜へ連れて帰り、英国人仲間にご馳走したところ、皆がその牛肉のうまさに舌鼓をうち、米沢牛が全国に一躍有名になるきっかけになりました。
1862年、日本初の牛鍋屋「伊勢熊」が横浜に開業。時を同じくして当時の横浜に来日していたダラス氏は、おそらく米沢に赴任前、牛鍋を食べたものと思われます。
鷹山公が興譲館を再興しなければ、ダラス氏が興譲館に赴任することもなかったでしょうし、米沢牛を横浜に持ち帰ることもなかったでしょう。つまり、米沢牛は今のようにメジャーになっていないかもしれませんね。