青梅マラソンが草分け 元陸連幹部が語る「市民マラソン」誕生秘話
昨18日に行われた青梅マラソン(東京)は1967年にスタートし、例年2月の第3日曜日に開催されている。今年は30キロの部に1万2500人、10キロの部に3500人が参加。原辰徳前巨人監督が30キロの部のスペシャルスターターを務めた。女子30キロは、パリ五輪マラソン代表の一山麻緒が1時間45分20秒で初優勝した。
この日は全国各地でマラソン大会が催され、多くの市民ランナーが参加したが、青梅マラソンが国内の市民マラソンの「草分け」であることはあまり知られていない。
当初の青梅マラソンは、1955年から60年までは実業団の選手や大学生が出場するフルマラソン(42.195キロ)だった。その大会を今の形に変えたのが、当時日本陸上競技連盟のマラソン強化担当(後に専務理事、副会長)だった帖佐寛章氏だ。
「フルマラソンのコースにしてはアップダウンがきつく、参加者は年々減っていった。大会を主催する報知新聞社の担当者が私のところにやってきて、『大会の継続が厳しくなってきました。何かいい方法はありませんか?』という。私は距離を30キロに短縮し、一般ランナーを参加させたらいいと助言した。その頃は国内にハーフマラソンはなかった。キリの良い30キロにすれば市民ランナーも走れると思って提案したのです。すると相談にきた担当者は『一般のランナーも一緒に走らせるのですか?』とビックリです。それも当然で、当時は市民ランナーが走れる大会は国内にはなかった。そうして生まれ変わったのが、67年の第1回大会。64年東京五輪マラソン銅メダリストの円谷幸吉が出場することになり『円谷幸吉と走ろう』をキャッチフレーズに参加者を募集し、一般30キロに182人、高校10キロに155人の合計337人が参加。4回目からは参加者は1000人を超えた」(帖佐氏)