「志ん生の食卓」美濃部美津子著
昭和の落語会を代表する名人・古今亭志ん生。生粋の江戸っ子だった明治23(1890)年生まれの志ん生は、どのような飲み方や食べ方をしていたのか。もっとも近くでそれを見ていた長女が語る素顔とはいかに。
出だしは味の好み。納豆好きで豆腐好き、後は味噌豆など、判で押したように同じものばかり食べていたという。
<冒険心てのもありゃしないのよ。見たこともない料理を出そうものなら、「何だ、こりゃ。俺ぁいい」って言いだすに決まってますから>
魚はマグロ一辺倒で、中トロのブツ切りを肴に飲み、締めは茶漬けにしたそうだ。寿司は握りより、ちらし。馴染みの店で頼む特注ちらしは、半分が中トロ、残りが煮アナゴだったが、せっかちなので、1個ずつ食べるのを面倒がったんじゃないかと推測する。
志ん生といえば大酒飲みのイメージで、双葉山と飲み比べをしたり、脳出血で生死の境をさまよった揚げ句、目が覚めた途端に「酒くれ」と言った逸話が有名だ。でも、著者から見た父の実像は、酒は好きだが大酒飲みとは思わないというもの。家では「菊正宗」の冷酒を1、2杯しか飲まなかったらしい。もっとも、売れっ子になるまでは貧乏で、優雅に晩酌どころではなかったのだろうが。
とまあ、ファンにはたまらない逸話ばかりだが、本書の読みどころは他にもある。貧乏時代にもそれを苦にすることなく、大黒柱である志ん生をもり立てていく、つつましやかでたくましい家族の暮らしぶりだ。食糧難だった戦中戦後を振り返るきっぷの良さときたら……。
<生まれたときからずっと貧乏暮らししてたじゃない。そんときと食生活はたいして変わんないのよ>
巻末には志ん生十八番の「替り目」を収録。読了後、カミさんに酒をねだる酔っぱらい男が、志ん生そのものに思えてくる。(新潮社 590円+税)