「『自分らしさ』と日本語」中村桃子著
自分のことを指す自称詞は、英語では「I」ひとつだが日本語には「わたし、あたし、ぼく、おれ」などいくつもある。この自称詞の多さは語彙の豊かさとみられる半面、制限される面も出てくる。例えば「わたし、あたし」は女性用、「ぼく、おれ」は男性用という区分けがあるが、近年の小中学生の女子には「ぼく、おれ」を使う人がいるという。なぜなのか。
幼児期には自分の名前や愛称で「○○ちゃん」と自称する子どもが多い。それが小学校に入る頃には、女子は「わたし」、男子は「ぼく」に変えるように指導される。この「○○ちゃん」から自称詞への変換には男女で差がある。男子の場合は少年性を帯びた「ぼく」を経て、大人になったら時に応じて「わたし」を使うという緩やかな道筋が用意されている。女子の場合は迂回路なしに一挙に「わたし」という〈大人の女性〉と同じ自称になってしまう。大人の女性になるということは、男の性の対象物と見なされることを意味する。そうした性的対象から逃れるために少女たちが自らつくった迂回路が「うち、ぼく、おれ」という自称詞なのだ。
本書は、自称詞をはじめとするさまざまな呼称、敬語、方言、女ことばといった多彩な角度から、ことばとアイデンティティー(自分らしさ)の関係について考察したもの。他にもこんな事例が紹介されている。
札幌にある宝石店に強盗が押し入った。そこへ警察官が駆けつけ強盗の容疑者ともみ合いになる。そのときの会話。
容疑者「ノー スピーク ジャパニーズ」
警官「あ? 何人や おまえ……。観念せえ」
ところが容疑者は日本人で、警官は関西出身ではなかった。犯人はとっさに英語をしゃべって外国人のふりをして、警官は相手を威嚇するべく「関西やくざ」風の言葉を使ったのだ。先の女子小中学生の自称がアイデンティティーの「スタイル的な越境」とすれば、こちらは「パフォーマンス的な越境」となる。
夫婦別姓などアクチュアルな問題にも有効な示唆を与える、社会言語学の良き入門書。 <狸>
(筑摩書房 946円)