森達也(映画監督)
8月×日 芥川賞を受賞した「おいしいごはんが食べられますように」(講談社 1540円)を読む。著者は高瀬隼子。大きな物語ではない。ごく普通の会社。ごく普通の社員たち。メインは20代後半の男性社員と2人の女性社員。1人の女性社員だけが一人称。でも彼女は主人公ではない。残る2人も主人公ではない。つまり主人公がいない。新しい。一人称と三人称が(映画で言えば)カットバックしながら、食べることをメタファーにして人間関係の微妙さや不条理さを描いてゆく。読みながら思う。食とは自分を馴致させること。それが日常。ならば日常とは何か。8月下旬に映画の撮影が始まる。ずっとドキュメンタリーを撮ってきた自分にとっては初めての劇映画。
ただし、多くの人が思うほどフィクションとノンフィクションとのあいだに大きな違いはない。特にドキュメンタリーとドラマは重なる領域が大きい。でも実際に関わってみると、ドラマはチームと実感した。スタッフも多いし俳優もたくさんいる。ずっと少人数で撮ってきた僕にとっては、初めての体験ばかりだ。
8月×日 定期的に量子論や宇宙論の本を読む。ただし専門書は無理。生粋の文系なのだ。だからわかりやすく最先端科学を解説してくれる講談社ブルーバックスや科学雑誌Newtonはずっと愛読書だ。
量子は粒でもあり波でもある。位置を特定すれば速度がわからなくなる。宇宙の始まりは無の揺らぎ。……などなど。フレーズごとに書いたら意味不明だが、とてもとても面白い。だからこの分野の第一人者である村山斉が書いた「宇宙はなぜこんなにうまくできているのか」(集英社インターナショナル 1210円)を再読。
8月×日 ロケ前日。これから1カ月京都。いちばんの心配はコロナ。スタッフキャスト総勢で100人近く。1人も発症しないままにクランクアップはまず無理だ。低予算でぎりぎりに切り詰めているから撮影延期は不可能。怖い。でもここまできた。やるしかない。