「中井久夫 人と仕事」最相葉月著
「中井久夫 人と仕事」最相葉月著
ウクライナ情勢の先が見通せないうちに、イスラエルのガザ侵攻のニュースが連日報道されている。イスラエルの指導者層は、なぜ「戦争」へと踏み越えてしまったのか。
昨年8月8日、88歳で亡くなった精神科医・中井久夫は「戦争こそ、明確な言語化やイメージ化を経由せずに行動化されるものの最たるもの」だとし、戦争の犯罪学・精神医学的研究を試みていた。中井久夫は、統合失調症をはじめとする臨床の最前線で活躍した精神科医であり、阪神・淡路大震災のときにはいち早く精神科救急のネットワークをつくり、一方でヴァレリーやカヴァフィスの翻訳者としても知られる。まさに知の巨人。中井と長年付き合ってきた精神科医に言わせると、暗い世界を照らすために光の国からやって来た「ウルトラマン」だ。
本書は「中井久夫集」全11巻に著者が書いた解説をもとに大幅に加筆修正し、中井の仕事と人柄を小伝風にまとめたもの。著者はまた中井に絵画療法によるカウンセリングを受けるなど(「セラピスト」)、晩年の中井の話を聞く機会が多く、そこここに著作では垣間見ることのできない中井の生の声も聞こえてくる。生涯に多くの著作、論文、講演録を残した知のウルトラマンの全貌を捉えるのは容易ではないが、著者は200ページたらずの中にその足跡をコンパクトにまとめている。
ウイルス研究に従事していた中井は精神科医に転身、名古屋での臨床経験を経て「分裂病と人類」「治療文化論」などの著作を発表する。その後の詩の翻訳、患者との付き合い方、いじめ・災害・戦争といった社会問題と精神医学との接合、認知症・がんとの向き合い方などなど、中井が関わってきた多様な問題をどのように考えてきたのかを貴重なエピソードを交えながら描く。
読後浮上してくるのは、中井久夫という空前絶後の知性の存在であり、今後その不在感はますます強まることだろう。 <狸>
(みすず書房 2860円)