「ヤマトタケルの日本史」井上章一著
「ヤマトタケルの日本史」井上章一著
ヤマトタケルといえば、女を装い敵であるクマソ一族の宴席にもぐりこみ、その美貌に魅了されたクマソの族長を討ち取ったことで知られる。今風にいえば、トランスベスタイト(異性装者)によるハニートラップだ。日本では英雄伝説のひとつとして人口に膾炙しているが、著者が中国人留学生たちにこの話をすると、異口同音に「女になりすましてだましうちなんて、英雄のすることではない」と言い返されたという。
旧約聖書に登場するユディトもハニートラップで敵を討った民族的英雄だが、ユディトは紛れもない女性。女装の男を民族の英雄として語りつがれているのは、日本文化の特質が関係しているのではないか。本書はこの疑問を巡る知的な旅だ。
女装の英雄といってまず思い浮かぶのは牛若丸、源義経。五条大橋で被衣をかぶった牛若丸が弁慶を翻弄する話は有名だ。並はずれた美少年が女装して敵をやりこめるというのはヤマトタケルの伝説と響き合うが、一方で実は義経は出っ歯で小男だったという説が流布する。著者はこの正反対の説が時代によってどのように流通していったのかを丁寧に追っていく。
こうした時代による伝承の違いはヤマトタケル説話も同様で、さまざまなバリエーションが生じている。中にはヤマトタケルと一体化された熱田神宮の神が楊貴妃に化けて玄宗皇帝をたぶらかすという奇想天外な話も登場する。そのほか、「白浪五人男」の弁天小僧、「南総里見八犬伝」の犬坂毛野、さらには太平洋戦争中の日本軍兵士など、女装の系譜がたどられていく。
近代以前の日本はトランスジェンダーの文化が高度に発達した社会だったといわれるが、明治以降、西欧流のモラルが主流となるにつれ同性愛や異性装に対する否定的な姿勢が強まった。LGBTQの人権擁護が高まっている現在、日本の多様な性文化の基底を掘り起こすことは有用だろう。 〈狸〉
(中央公論新社2420円)