「生と死を分ける翻訳」アンナ・アスラニアン著 小川浩一訳
「生と死を分ける翻訳」アンナ・アスラニアン著 小川浩一訳
多言語の音声アプリなど機械翻訳の需要が高まっている。日常会話程度なら問題ないが、少し踏み入った議論となるとなかなか難しい。互いの言語の間には概念の違いや文化的な先入観によってズレが生じることが多々あり、そうしたニュアンスをくみ取ることが機械翻訳には難しいからだ。しかし、人間による翻訳(通訳)でも言語間のズレを見いだし、意味と意味の妥協点を探っていくというのは相当なスキルが必要。文言と精神の両方を保ちながら、わかりやすく表現し、原文の真意を読み取り、それを訳文として提示するのは至難の業で、あたかもロープの上で踊るようなものだ(原題は「DANCING ON ROPES」)と著者は言う。
本書には、翻訳・通訳をめぐるさまざまな歴史的なエピソードがつづられている。
最初に登場するのは東西冷戦の真っただ中に行われたソ連のフルシチョフ首相と米国のニクソン副大統領の会談。「言葉の殴り合い」とも称された討論だったが、両者とも諺やジョークを多用した。それをどう訳すか。一歩間違えば世界が深刻な危機に陥りかねない。そこを巧みに切り抜けられた翻訳(通訳)者は、紛れもなく冷戦の当事者だったことになる。
政治に限らず大きな影響を及ぼした例として、イタリアの天文学者スキアパレッリが火星の表面に見いだした〈canali〉の語がある。このイタリア語の英訳は〈canals=運河〉とされ、これが波紋を呼ぶことになる。実は〈channels=水路〉という訳語の可能性もあったが、取り上げられず、以後、<火星には運河がある=火星人がいる>という言説が広まっていく。もし水路になっていたら……。
そのほか、ヒエロニムスのラテン語訳聖書が及ぼした影響やニュルンベルク裁判におけるユダヤ人通訳たちの葛藤など興味深いエピソードも紹介され、翻訳・通訳という行為の奥深さが、現役翻訳家の目で語られている。 〈狸〉
(草思社 2750円)