山路徹氏の恩人は筑紫哲也氏 フリーランスの活動支え続ける
次に会ったのは、編集したVTRのプレビューを一緒に見た時。作品にしたものを初めて見ていただくのですから、この時はさすがに緊張しました。そんな僕に筑紫さんは「いつも見ていたよ」と声を掛けてくれた。あの時はうれしかったなぁ。
フリーランスは放送されて初めて報酬を得られます。放送してくれるところがなかったら次につながらない。「報道局は聖域」と考える局の中でフリーの僕を使い続けてくれた筑紫さんには感謝しかありません。
■「筑紫賞」での言葉は今でも額に入れて…
筑紫さんからよく言われたのは「そんなに急いじゃダメ」です。僕は攻撃する側からよりもされている側から取材することが多かったので「よく生きて帰ってきたな」って常々言われた。「生き急ぐな」って言いたかったんでしょうね。
もうひとつ忘れられないのは「日本人にとって平和っていうのは空気のようなもんでさ、なければ生きていけないのに、ありがたがらない」と言っていたことです。昭和10年生まれの筑紫さんにとって、“戦争”は大きなキーワードだったと思う。だからこそ今、どこかで起きている戦場を伝えることで戦争の抑止力になってほしいと思っていた。