芸名変更もアドバイス 関根勤が語る恩人・萩本欽一の“眼力”
2年前に初めて映画監督に挑んだ作品が間もなく公開される関根勤さん。師匠といえば、言うまでもなく、萩本欽一さん。デビューこそ華やかだった関根さんが低迷していた頃、こんなふうに諭された。
「おまえら、テレビに出るのもいいけど、地下に潜れ。まず修業しろ」
萩本さんに小堺(一機)君と2人揃ってこう言われたのは81年の春ごろ。僕が27歳、小堺君は25歳でした。
「何でイマイチ売れないか分かるか? それは面白い時と面白くない時の差があり過ぎるからなんだ。俺は50人ほどしか入らない浅草の芝居小屋で修業した。失敗もたくさんあったけど、技術を全部、身につけ、それから(坂上)二郎さんとコンビを組んだ。それで毎回90点以上出せたから、どんどんどんどん仕事が来たんだ」と。
それで、僕らはその年の6月から毎週土曜日、下北沢のライブハウス「スーパーマーケット」でコントライブ「土曜の夜にしゃらくせえ」をやって、遅まきながら腕を磨いたんです。
そして1年後に、まず小堺君が「欽ちゃんのどこまでやるの!?」(テレビ朝日系)のレギュラーになり、その後、僕にも声が掛かりました。