松坂慶子の父は最後まで結婚反対し孫を見ることもなく他界
両親の後押しで児童劇団に入り、女優を目指していた松坂慶子。高校卒業後、大映専属に。1980年代、「火宅の人」「蒲田行進曲」などの映画で一躍、スター女優の仲間入りを果たしたが、女優人生の起点になる作品となったのが1971年「夜の診察室」だった。
後に映画関係者から聞いた話は、当時の映画界を象徴する話だった。
「本来、主演は当時、売り出し中のセクシー女優・渥美マリだったのが、“もう肌を露出するのは嫌”と拒否したことで松坂が起用された。結果的にこの映画で松坂は注目されるようになり、スターの階段を駆け上がっていった。対照的に渥美は松坂に嫉妬するようになって精神的にズタズタになり、睡眠薬で自殺未遂を起こすなどした」
女優がケガや病気で降板。「内心、手を叩いて喜んだ」といわれた時代。代役にとって巡ってきたチャンス。松坂はこの映画をきっかけに確実にステップアップし、松竹に移籍後もさらに活躍の場を広げていった。
80年代に入るとTBS系ドラマ「水中花」に主演。主題歌「愛の水中花」がヒット。バニーガール姿で歌う松坂のセクシーさに男性は魅了された。ドラマの宣伝でインタビューしたことがある。TBSの楽屋だった。松坂は視力が悪く、話す時は顔を近づける。潤んだような瞳で話しかけられ言葉を失うほどだった。