ウインズ後楽園の“お膝元”神田三崎町の地元住民が語る「江戸と令和を結ぶ歴史」
パリを模して3劇場が誕生
このエリアは元々、徳川家康をはじめとする江戸時代の歴代将軍が城下町として開発。大名や旗本などの武家屋敷が立ち並んでいたこともあり、江戸末期は幕府の武芸訓練機関である小川町講武所が設置され、剣術や槍術、柔術、弓術のほか砲術を指導。特に砲術では西洋式砲術も教授されていたという。
「講武所に通う武士はイケメンが多く、六花街のひとつ神楽坂によく繰り出し、にぎわったそうです」(歴史研究者の八柏龍紀氏)
講武所は1866年に陸軍に収用されて廃止。明治維新後には陸軍練兵所となるが、1890年には練兵所の跡地や陸軍省用地など約10万坪が三菱会社に払い下げられ、この辺りの再開発がスタート。その後、三菱は丸の内や大手町などビジネス街の建設に本格的に着手。明治末期には、東京最大の土地所有者として地位を確保する。
その中で、丸の内はビジネス街としてロンドンの金融街シティーにある「ロンバード・ストリート」を参考にしたこともあり、「一丁倫敦」と呼ばれた。一方、三崎町は商業と娯楽の町として位置づけられ、パリを模した町並みが模索された。この町に、三崎三座と呼ばれる3つの劇場(三崎座、川上座、東京座)を三菱が開業したのはそのためで、明治・大正は芝居の町としてにぎわっている。
「川上座をつくった川上音二郎の妻・川上貞奴は夫とともに欧米で公演するほど人気がありました。それが評判を呼び、貞奴はフランス政府から勲章を授与されたほどです」(八柏氏)
レンガ造りの三崎町勧業場(ショッピングモール)や、当時はやっていたパノラマを見せる帝国パノラマ館、神田パノラマ館も三崎三座の近くに建てられている。
パノラマは現在、広々とした空間を表現する言葉だが、当時はそんな光景を疑似的に視覚体験させる見せ物、空間装置だった。その構造は、円筒形の室内に描かれた一続きの絵を、中央の見物台から眺める単純なものだが、遠近法や光量などを巧みに調節することで実際の光景に取り囲まれているような没入感を演出する。当初は米国の南北戦争の輸入画像が人気だったが、日清戦争など日本が活躍する戦争作品が目立つようになる。
三崎町はそんな流れを受け、商店や工場も増えていくが、1923年の関東大震災で焼失してしまう。