打たれて「ホラ見てみい」士気下げた長嶋監督のベンチワーク
長嶋茂雄監督(78=当時39)1年目の昭和50年、巨人は球団史上初の最下位に終わる。チーム再建はフロント主導で着手。首脳陣は一新され、一軍に残ったのは守備・走塁コーチ補佐から同コーチに昇格した黒江透修氏(76=同36)だけだった。本紙は同年10月27日に創刊。第4号で「長嶋改造内閣」の不安点を指摘した。黒江氏が当時を語る。
「昭和49年秋、監督になる長嶋さんから(ホテル)ニューオータニに呼ばれて引退勧告を受けました。<会社が、黒ちゃんは力が衰えたから来季の契約はしない。コーチもダメだって>と。私は、引退しろというのなら従いますが、コーチ補佐でもいい、球団に残してくださいと頭を下げました。2、3日すると長嶋さんから<黒ちゃん、コーチ補佐の件はOKだよ。でも、コーチって給料安いんだってね>との連絡がありました。月給は新築した家のローンと同額の30万円でした」
長嶋監督1年目の開幕直後。阪神戦(甲子園)の一回裏に無死一、三塁のピンチを迎え、巨人の内野陣は前進守備を敷いた。
「びっくりしました。初回ですから1点やってもゲッツーを取るべき場面。前年まで川上監督のヘッドだった牧野(茂=当時評論家)さんがネット裏からベンチ裏に飛んできて、<何であの守備隊形なんだ!>とすごいケンマクでした」
数日後、黒江氏は長嶋監督とこんな会話をした。「甲子園の件ですが、(作戦担当の須藤豊)コーチから、事前に守備位置の話はなかったのですか」「アイツは、どうしますか? としか言わなかった」「監督は慣れていないのですから迷ってもしょうがないです。あの場面、1点やってもいいのですから、私なら守備位置は後ろにしますか、中間ですかと、2つの選択肢を提示します」
これに長嶋監督は、「そうだよな。コーチがしっかり助けてくれないといかんのだよ」と言ったというが、黒江氏はこう続ける。
「コーチは皆気を使っていたと思います。ヘッドの関根(潤三)さんはノンビリタイプ。コーチ補佐なのであまり出しゃばりたくなかったのですが、ミーティングをやらないので、<コーチを集めて何か話した方がいいですよ>と言ったら、<そうかな、やらないといかんかなあ……ならば君が集合をかけてくれ>という感じでした。長嶋さんとは三遊間のコンビを組んでいたので結構ズケズケと何でも言える関係でした。だから2年目も残れたのではないか」