<第16回>あえて「左打ち」に変えた父の親心

右利きの大谷は水沢リトルで硬式野球を始めた当初、右打ちだった。水沢リトルでコーチをしていた父・徹(52)はしかし、すぐ、左打ちに変えた。それは徹なりの親心だった。
「まさか、ずっとピッチャーをやっていくとは思わなかったのです」
と、徹が苦笑しながらこう続ける。
「野球をやるからにはいろいろなポジションを経験していくのでしょうが、目指すところはピッチャーというのがあるじゃないですか。おそらくピッチャーをやっていくんでしょうけど、いつかはくじけるときがくると思ったのです。それが高校なのか大学なのかはわかりません。でも、いつかは……とね。足の速い子だったし、左打ちなら一塁まで一歩近い。内野安打になる確率も高い。左打ちの方が少し得かなと。いずれ野手になるときがくるだろうと思って、左で打たせるようにしたのです」
右投げ左打ちは徹自身の体験に基づいた知恵でもあった。
中2で本格的に野球を始め、野球部ではエースで4番。しかし、入学時の春のセンバツにも出場した岩手・黒沢尻工業の野球部には「エースで4番」がごまんといた。
徹は入部してすぐに投手から内野手、内野手から外野手へとコンバートされた。右投げ右打ちだった徹は足に自信があったし、野手で生きていくためにも有利と思う左打ちに変えた。高校1年から2年にかけてのことだ。
徹が高2だった79年は、右投げ左打ちの篠塚和典が巨人に入団して4年目。76試合に出場して二塁手のレギュラーをつかみかけていた。左打ちではなかったものの、右投げ両打ちの高橋慶彦(広島)が2年連続3割をマーク、55盗塁でタイトルを獲得した年でもある。「先輩たちの間で
この記事は有料会員限定です。
日刊ゲンダイDIGITALに有料会員登録すると続きをお読みいただけます。
(残り443文字/全文1,160文字)
【ログインしていただくと記事中の広告が非表示になります】