浅野拓磨の所属先空欄で思い出した37年前の“所属なし”問題
最終予選当時、彼の所属チームが取り沙汰されることはなかった。
田口氏は1983年のロス五輪一次予選にも、1984年1月のブラジルの名門クラブ・コリンチャンス戦にも、三菱重工サッカー部(現浦和レッズ)の所属選手として出場していたからだ。
ところが、田口氏は1984年3月末日を持って三菱自工を退社していた。
故郷の秋田に戻り、高校サッカーの指導者として第二の人生を送ることにしていたからである。
そんな田口氏に長沼JFA専務理事(メキシコ五輪監督、第8代JFA会長。故人)から「ロス五輪の最終予選にも出場してほしい」という依頼が入った。
「人徳者である長沼さんの願いを聞けない人間はサッカー界にはいない」と田口氏は快諾した。
しかしながら、当時は所属クラブがないと公式戦に出場できない可能性もあり、長沼氏から「どのチームでもいいから選手登録をして欲しい」と要請があった。
そこで田口氏は、東北社会人リーグに加盟していた秋田市役所サッカー部(現秋田FCカンビアーレ=東北社会人リーグ2部)の一員となった。