浅野拓磨の所属先空欄で思い出した37年前の“所属なし”問題
残念ながら森ジャパンは、初戦(4月15日)で一度も負けたことのなかったタイに2-5で大敗する。ピヤポンというエースFWにハットトリックを許したが、彼の情報を日本は把握していなかった。それからマレーシア、イラク、カタール相手にいずれも1-2のスコアで敗れ、まさかの4戦全敗でロス五輪出場の夢は断たれた。
田口氏は、3戦目のイラク戦(4月21日)を最後に現役生活にピリオドを打った。国際Aマッチ59試合、BとCマッチ79試合の計138試合出場という記録が残っているが「メキシコ以来となる五輪出場に大きな期待が集まっていた。その期待を裏切って申し訳なかった。現役最後にほろ苦い思い出が残った」と田口氏は述懐してくれた。
余談ながらーー。
シンガポールから帰国した田口氏は、秋田経法大付高(現ノースアジア大明桜大)サッカー部の監督として忙しい日々を送っていた。1年ほど経ったころ、田口氏の元に読売クラブ(現東京V)から、現役復帰のアプローチがあった。
仮契約書のベースとなるペーパーには「毎週木曜・金曜・土曜の練習に参加」「公式戦には必ず参加」「秋田~東京の往復航空券代として120万円を一括して支払う」などが記載されていた。
諸般の事情で読売クラブGK田口は実現しなかった。1983年にJリーグが発足。その8年前の日本サッカー秘話である。