亀山郁夫(名古屋外国語大学学長)
10月×日 1963年11月、テキサス州ダラスで暗殺されたJFKが、私の時ならぬブームとなって約4か月が経つ。この間、JFKと関係があったとされるMM(マリリン・モンロー)の「魅力」にも目覚めてしまった。晩年、深い精神不安に陥ったMMがひたすら自虐の道をめざしていたことを知った。自殺か、他殺かの答えはまだ出ていないが、裏切られた美女の狂気ほど悲しいものはない。
辻原登の新作「隠し女小春」(文藝春秋 1760円)を読みながら、なぜかこのMMの最後を思い浮かべずにはいられなかった。大手出版社で働く中年男矢野にとって、ハンガリー製ラブドール=小春との夜は、1日の疲れを癒してくれるかけがえのないひと時。不定期ながらバーの女主人との関係も続く。
そんなある日、矢野は、「生身の」魅力的な女性との出会いをつい小春に漏らしてしまう。「戦慄の長編サスペンス!」の本領発揮はまさにここから。毎夜の睦みあいのなかで、小春の心は確実に愛と意志に目覚めていたのだ。ヒッチコック顔負けの凝りに凝った筋立てに驚嘆させられる。
魅力的なのは、その独特のハードボイルドタッチの語り口。前作「卍どもえ」(中央公論新社 1980円)もそうだったが、どんな色恋沙汰を描くにせよ、辻原ほど冷徹な視線で対象に迫ろうという作家はいない。主題は優れて現代的であり、近未来小説としてしたたかに不気味な趣さえ湛える。AIは意識を持ちうるか、意識をもったAIは、「生身の」人間にどう対峙するのか。
ロシアの作家のなかでも抜きんでて冷徹なリアリストとして知られ、辻原も愛読したチェーホフがこんな「名言」を吐いている。「私には、毎晩は顔を出さない月のような妻が必要だ」。世紀転換期の困難な時代を生き、重度の結核に冒されていたチェーホフだが、それでも毎夜、MM=小春に憩いを求めるほどやわな男ではなかったらしい。
復讐に狂った小春の最後のセリフが痛々しく、切ない。「私を捨てないで……私を」。かくして最高のサスペンスは、最高のメロドラマで幕となる。ただし、作者、辻原の涙だけは、何としても想像できない。