「仁義なきヤクザ映画史」伊藤彰彦著/文藝春秋
「仁義なきヤクザ映画史」伊藤彰彦著
反社会的勢力のことを略して「反社」と言う。ヤクザのことである。しかし、私には政府や自民党の方がよほど「反社」に見える。原発の汚染水をそのまま海に流した自公連立の岸田軍拡政権の方がずっと反社会的勢力だろう。
鶴田浩二が逝って間もなくテレビで彼の主演映画「傷だらけの人生」をやっていた。戦時色濃くなる中で、軍部は「お国のため」を振りかざしてヤクザをも糾合しようとする。それに乗っかる極道もいるが、鶴田の演ずるヤクザはそのいかがわしさを嫌う。そして、「自分たちもそれぞれの組の代紋を背負って無法なことをやるが、国家という“菊の代紋”を背負っているヤツらが一番あこぎなことをする」とつぶやくのである。
先ごろ亡くなった映画監督の中島貞夫は、著者のインタビューに答えて「戦前の日本映画は活動屋とヤクザとアナキストが作っていた」と言っているが、そもそもヤクザと映画は切っても切れない関係にあった。
無法者もしくはアウトローの視点から、著者は幅広くヤクザ映画を捉える。「ヤクザ映画に投影された大衆のヤクザへの恐れと憧れ、そしてヤクザ映画が暴き出した日本近代史の『闇の領域』を描き出す試み」なのである。
中に映画監督の西川美和や「死刑弁護人」の安田好弘、そしてビッグスターの小林旭のインタビューをはさんで興趣は尽きない。
「ヤクザ者は人別帳から除籍され、世間から捨てられていたので、逆に世間の目を気にしないで生きられたんじゃないかと思います」
浪曲師の玉川奈々福のこの言葉も「世間の目」を気にして生きるフツー人には皮肉に聞こえるかもしれない。
一般にヤクザの構成比率は、被差別部落民、在日コリアン、市民社会からのドロップアウトがそれぞれ3分の1ずつだといわれる。ヤクザ映画を作る時に差別問題は避けて通れないのである。
「レーニン全集を読む在日韓国人ヤクザ」として知られる柳川組2代目谷川康太郎がこう語っているという。
「小学校のセンセイは、努力する者は必ずむくわれる、と教壇の上でよう言うとった。これほどひどいウソはないわ。差別されとるモンは、ナニかしようと思うても、ナンもでけへんやないか。貧乏やから銀行いってもカネ貸してくれへんし、学校もろくに行けんから、まともなところには就職でけん」
一方で、差別が生む反逆のエネルギーの湧き口にも著者は注目している。 ★★★(選者・佐高信)