「ヒロイン」桜木紫乃氏
「ヒロイン」桜木紫乃著
1995年3月のある日、白昼の渋谷駅で毒ガスによる無差別テロ事件が起きた。実行犯として指名手配されたのは、「光の心教団」の幹部男性と、23歳の信者、岡本啓美(ひろみ)。啓美は何も知らずに同行させられただけなのに、この日から17年もの逃亡生活を送ることになる。
現実に起きた事件を思わせる設定だが、あの事件や当事者を書いたわけではない。
「私が書いたのは、逃げた女の17年間。20代、30代、そして40歳になるまでの17年間に、彼女は何をしていたんだろう? いつものことなんですけど、書かないと答えが出ない。彼女のことが何一つわからない。なんとか啓美に寄り添いながら書きました」
啓美は体形やメークを変え、名前を変え、別人になりすまして生きていく。ハラハラドキドキの逃亡劇ではない。
「啓美が逃げたのは、一回だけなんですよ。支配的な母親から逃げたときだけ。その後は、巻き込まれ、流されていくんです」
啓美の母親はバレエ教室の経営者で、娘を一流のダンサーにしようと厳しく育てた。母の望みは高く、啓美がどんなに頑張っても届かない。高校3年の秋、啓美は母親とバレエを捨て、光の心教団に逃げ込んだ。そして5年後、知らずにテロ事件に関わってしまう。
実行犯にされた啓美の前に、助け舟を出す女たちが現れる。父の再婚相手とその娘、事件を追うフリーの女性記者と彼女の祖母だ。
「彼女たちは行きがかり上、啓美を手助けするんですけど、そこには私利私欲がからんでいます。みんなそれぞれの事情を抱えながら、したたかに生きている。そうした女たちとの出会いの中で物語が進んでいきます。『ヒロイン』というタイトルは早い時期に決めていたのですが、タイトルが連れてきてくれた物語でもありましたね。そう、女の人はみなヒロインだと思います」
別人になりすました啓美が、自分の指名手配写真のすぐそばにいても、誰も気づかない。人は自分が見たいようにしか相手を見ない。
「あなたの隣にいる女は、本当にその女? よく知っているつもりの女の人を疑ってみてもいいんじゃないですか」と笑う。
それにしても17年は長い。自首して本名の自分にもどることもできたはずなのに、啓美はなりすまし人生をやめようとしない。
「彼女、あるときから、生きることが面白くなったんだと思います。居心地はさほど悪くない。まして好きな男ができれば、その生活を手放したくない。私も書いていて面白かったので、啓美もきっとそうだったんでしょう」
母親から逃げた後、思いもよらない人生を生きることになった啓美は、作品の中で少女時代からやり直し、ようやく母親の呪縛から解き放たれる。そしてこう独白する。
〈ママ、誰もトウシューズを履いては生まれてこんのや。みんな自分に合うた靴がある。啓美はやっと自分の靴を見つけたんよ。〉
「書き終わってみれば、啓美がちゃんと成長していたのがうれしかったです。啓美という人間をつくって、育てて、手放すことができたかな、と」
直木賞受賞から10年。桜木紫乃はまた自己ベストを更新し、最高傑作を届けてくれた。 (毎日新聞出版 2200円)
▽桜木紫乃(さくらぎ・しの) 1965年北海道生まれ。結婚し2児の母となった後に小説を書き始める。2007年、単行本「氷平線」でデビュー。13年「ラブレス」で第19回島清恋愛文学賞、同年、「ホテルローヤル」で第149回直木賞受賞。「砂上」「緋の河」「家族じまい」「孤蝶の城」など著書多数。