球界OBが今だから明かすプロ野球交流戦秘話(パ・リーグ)
馬原孝浩(ソフトバンク)
コロナ禍の昨年は見送られたものの、2005年から続くセ・パ交流戦も折り返し。選手、コーチとして経験した6人の球界OBが、秘話、ハプニングを明かす――。
■「通算1安打」は広島戦で決勝二塁打
楽しみは打撃だった。普段は打席に立たないため、練習はしないが、交流戦期間中は投手陣も打撃練習を行う。学生時代から投球より打撃練習が好きで、本塁打競争をやったり、ここぞとばかりに打ちまくった。
ただ、打ち過ぎて肘から先が筋肉痛になり、握力がなくなった状態で試合に臨むことも多かった。とはいえ、リリーフ投手が打席に立つ機会はほとんどない。
チャンスは05年6月8日の敵地での広島戦で訪れた。同点の八回から登板し、九回2死二塁の勝ち越し機に打順が回ってきた。しかし、代打は送られず、私がそのまま打席へ。すると、ライトオーバーの決勝二塁打を打つことができた。
投打のダブル監督賞をもらったのは、私だけではないか。
三井浩二(西武)
■手が痛くてバント練習を拒否
初めて交流戦が開催された05年、西武はなかなか勝てなかった(18勝18敗)。連勝、連敗の繰り返しでチームは波に乗れない。
伊東監督も同じパ相手ならともかく、普段戦わないセが相手だけに手に負えなかったのか。「選手の間で解決しろ」と僕らに丸投げ(笑い)。選手だけのミーティングを頻繁に行っていた。
が、話し合いといっても最終的には「とにかく声を出して、空騒ぎでもいいから元気を出していこう」という結論にしかならない(笑い)。普段はシーズン中は前半後半の折り返しくらいでしかやらない決起集会も何度か行った。
バント練習の思い出もある。僕ら中継ぎが打席に立つ機会はほとんどないが、コーチが「形だけでもやっとけ」と。ただ、普段やらない分、ボールを当てた衝撃で親指付け根が痛くなる。これでは握力が落ちて投球に影響が出かねない。だから途中から「僕はバント練習をしません」とキッパリ断っていた。
小林雅英(ロッテ)
■「炎のストッパー」津田さんのプレートを見学
思い出といえば、広島市民球場。広島側のブルペンには津田恒実さんのプレートがあって、投手はそれに触ってから試合に出る、という話を聞いていた。津田さんは「炎のストッパー」と呼ばれていた方。僕も同じ抑えとして興味があったので、試合前にお願いして広島側のブルペンに行って見学させてもらった。
これは最初の1、2年目だけだが、選手は「球場グルメ」巡りも楽しんでいた。広島市民球場で名物の広島ラーメンを食べたり、他球場だとカレーだったり……。
あとは打撃練習。僕は抑えだったが、万が一に備えてメーカーにバットやレガース、手袋など一式揃えてもらった。確か初芝さんだったと思うが、「資源の無駄遣いだ」と(笑い)。なにせ、二軍選手よりも立派な用具だった。実際、僕は一回も打席に立たないまま、「打者装備」はお蔵入り。これはメジャーに移籍する際、全部球団に寄贈した。