大坂なおみの全仏OP棄権の裏で進むテニス界の「地殻変動」
テニスの全仏オープンは佳境に入り、男子の新旧対決を中心に盛り上がりを見せている。
私が初めて全仏を取材したのは1985年で、その年の一番の話題は予選から上がって3回戦まで進んだアンドレイ・チェスノコフというソ連の若者だった。チェコ出身のナブラチロワが亡命したように、旧社会主義国は冷戦崩壊まで原則的にプロ活動への参加を認めなかった。チェスノコフの出現は、テニスが88年のソウルでオリンピックに復帰することが決まっていたためだ。
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当時の全仏は人気がなかった。ラリーの続くクレーコートの試合はテレビの“尺”に合わず、ボルグよりマッケンローのサーブ&ボレーのようなスピーディーなプレーが求められた。
はるか南半球の全豪オープンはさらに貧弱で日本が買収しようという動きさえあり、トップ選手はほとんど参加していなかった。いまではグランドスラム大会としてウィンブルドン、全米と肩を並べる。「グランドスラム」は4大会全制覇を指し、いまのような意味ではなかった。時代は変わったのだ。