白井貴子さんが語るモントリオール五輪女子バレー「金メダル」と“ひかり攻撃”誕生秘話
白井貴子さん(バレーボール元日本代表/72歳)
26日にパリ五輪が開幕する。今大会は球技でのメダル獲得の期待が高まっているが、そのひとつはバレーボール。男女ともメダルの可能性があるといわれているが、女子は金メダル獲得なら1976年モントリオール大会以来実に48年ぶり。エースアタッカーだった白井貴子さんが金メダル獲得までを語る。
64年東京大会で日本代表はご存じのように「東洋の魔女」といわれ、金メダルを獲得しました。続く68年メキシコ大会、72年ミュンヘン大会と連続して銀メダルでした。だからモントリオールの時は「新東洋の魔女」といわれました。
東京五輪の時はまだ12歳。女性がブルマーをはいて、人前でプレーしている姿を見て驚きました。なんて格好してるんだろうと思いましたね。バレーボールを始めたのは中2の14歳。クラスで将来の夢を発表した時に、私は何の根拠もないのに「五輪に出て金メダルを取る」と言ってたんですよ。その頃から身長が高かったので(後に180センチ)、周囲に期待されていた面はあります。ただ、日本代表になって金メダルを取ることができるのは24歳の時かな、でも、それまでの8年、9年は長いと考えて、取るなら20歳で迎える72年ミュンヘン大会と決めていました。
そこからはもう二転三転の連続です。高校はバレーで知られた片山女子高に特待生で。五輪代表になるには高3の18歳で実業団に目をつけてもらわないといけない。だけどその頃の片山はガタガタでメンバーも足りないような状態。そんな中でたまたまインターハイ予選で来ていた実業団の倉紡の白井省治監督が私を見て「高校を出たらうちに来ないか」と言ってくれたというのです。
その縁で倉紡に入ったのはいいけど、ありえないことばかり。その頃の倉紡は会社がオイルショックで傾き、チームも弱くなっていた。こんなチームでやっていても日本代表の夢はかなわないから辞めることばかりを考えていました。
私は白井監督に見込まれ、養女になって、倉紡の寮に入りました。紅白試合をやることになっていた日のこと。カゼをひいても熱が出ないたちなので、カゼなのに大丈夫といわれて試合に出ました。頭はグラグラなのに、です。その日に限って母と姫路に嫁いでいた姉2人が試合を見に来ていたので張り切ったんですね。転んで起き上がろうとしたら左腕を踏まれ、捻挫した上に骨折しちゃった。
私は失神してそのまま救急車で病院に運ばれました。それから4週間は家に帰ってギプス生活です。捻挫して腕はパンパンに腫れあがり、ギプスで固められ、痛くて夜も眠れない。4週間後にやっとギプスが取れたと思ったらビックリ。腕が細くなって半分くらいになっていた。
京都の有名な接骨院の先生に診てもらったら先生に「あと3日遅れていたら腕がダメになっていた」と怒られ、先生のもとで1カ月ほどお世話になりました。
倉紡は日本リーグの下の実業団のチーム。その頃4連敗し、日本リーグとの入れ替え戦には後がないというところまで追い詰められていた。それでまだ腕が半分くらいになっている私に試合に出ろという。腕に添え木をし、紫色になっている手に手袋をつけて。相手はレシーブできない私を知って狙ってくる。レシーブをすると添え木に当たってポコッと音がしてドリブルを取られる。仕方なくセッターをやって、左手をかばいながらどうにか勝ちました。
それから倉紡は6連勝して日本リーグ入り、私は倉紡からたった一人日本代表のヨーロッパ遠征で出かけました。ところが、帰国したら白井監督がクビになっていた。私は監督に憧れて養女にもなっていたから、いない間にクビにされて納得できない。また、辞めることばかり考えていました。
その時に「辞めるのはいつでも辞められる」と誘ってくれたのがユニチカの監督で72年ミュンヘン大会の小島孝治監督です。決勝戦の相手はソ連です。日本は負けていて、私はその日、肩の調子がいいので、4セットの時にコーチを呼び出し「試合に出してください」と直訴。途中から出てそのセットは勝ち、監督から「ビック(愛称)、5セットはおまえ、レギュラーでいくぞ」と言われて出たけど、ソ連には負けて銀メダルでした。
■「コートで死にたい」という山田重雄監督に「勝手にどうぞ」
大会後は引退して辞めると決めていたから倉敷に帰りました。10カ月くらいは家にいました。そんな時に白井監督とは飲み友だち、麻雀友だちの山田重雄さん(日立の監督、76年モントリオール大会の代表監督)が岡山にやってきて。実は私が17歳の時、山田さんから岡山で行われた練習試合の後、うちの内情をあれこれ聞かれたことがありました。そんな縁があったので、その後しばらくして私から山田さんに連絡を取ると、ワールドカップの予選を戦っていた前橋に「すぐに来い」と言う。行ってみたらいきなり記者会見です。「白井貴子、日立入り」と大々的に報道されてビックリ。あの頃はとにかく想像もできないことの連続でした。
山田先生の構想は私と釧路商業の選手で日立に練習に来ていた松田紀子さんを中心にチームをつくること。松田さんは元はアタッカーですが、168センチでアタッカーとしては背が低くて戦力外だった。ただ、その頃は日立にたまたまいいセッターがいなくて、結果的に松田さんに白羽の矢が立った。それで白井、松田のコンビで戦う構想が山田先生の中で固まったんです。
彼女とは2段トスから打つスパイクをやりました。でも、高く上げなければならない2段トスは彼女には難しかった。私もジャンプのタイミングが掴めなくてね。私のプレーを見た先生は「借りてきた猫みたいだ」と怒りだしてね。頭にきた私は先生と1年間口を利かなかったほどです。そんな私に先生は「俺はコートの上で死にたいんだ」なんて言う。私は「どうぞ勝手に。なんで私が死ななきゃならないのか」なんて言い返して。