「ゲッベルスと私」ブルンヒルデ・ポムゼル、トーレ・D・ハンゼン著、石田勇治監修 森内薫ほか訳
黒縁の眼鏡をかけ、顔じゅう深いシワが刻まれた103歳の女性は、思いのほか力強い声で語る。「今の人はよく言うの。“私ならあの体制から逃れられた”“絶対に逃げた”」。そして左右の拳を固く握りしめ、「ナイン(無理よ)。あの体制から――逃れることは出来なかった……」と言った後、両手で顔を覆う。
先日から上映が始まった映画「ゲッベルスと私」のひとコマだ。ナチス・ドイツの国民啓蒙・宣伝相としてプロパガンダを管轄し、大衆をナチス支持へと扇動したヨーゼフ・ゲッベルスのタイピスト兼秘書を務めたブルンヒルデ・ポムゼルの30時間に及ぶ独白インタビューの記録映画で、本書はその回想を土台に、編集し直したもの。
ベルリンの内装業者の娘として生まれたポムゼルは、33年、22歳のときナチ党員になり、国営放送局で秘書として働き、42年に宣伝省に移り、ゲッベルスの秘書となる。終戦時にソ連軍に捕らえられ5年間の抑留生活を送る。
子供時代の思い出から戦後の苦労まで明瞭に語る彼女だが、一貫して強調するのは、若い頃から政治に無関心で、ユダヤ人のホロコーストについては何も知らなかったこと、そして自分には罪がない、ということだ。友人のユダヤ人女性がある日消えてしまったことには心の痛みを感じてはいるが、自分が働く宣伝省との関連には思い至らない。ナチ党員になったのは仕事を得るためで、宣伝省に入ったのも、個人の意思ではなく命令であって、そのことに「かけらも罪はない」と。
ここで語られているのは70年前のことだが、日本も含めてポピュリズムが席巻する現在、彼女のような政治への無関心、見て見ぬふりが集合して、巨大な悪を生み出す可能性がないと言えるのか。その時、我々はそこから「逃げ出す」ことができるのだろうか。 <狸>
(紀伊國屋書店 1900円+税)