「必ず治る病気になる」ALSと闘う恩田聖敬さんの思い
病気を実感したのは、それから3カ月後。セカンドオピニオンで訪ねた別の病院での検査結果もALSだった時です。すでに左手まで症状は進行し、右手でカバンを持つこともできませんでした。自分でも「やはりALSなのではないか」という不安をかき消すのに必死だった頃にあらためて検査結果を告げられ、絶望感を味わいました。生きる意味を失いかけて、妻の前で号泣しました。人前で泣いたのはあの日が生まれて初めてです。
その後、病気の進行とともに職務を全うすることは難しいと判断し、2015年11月のシーズン最終戦後のあいさつで社長職退任を表明しました。その後、12月の臨時総会で代表取締役を降り、2016年4月に取締役任期満了でFC岐阜を去りました。
その頃は、ALSの進行を遅らせる「リルテック」という薬を服用、同様の作用の「ラジカット」の点滴治療もスタートしました。また、胃ろう増設の手術を受け、車椅子を利用し、言語コミュニケーションはほぼ失われた状態でした。
当時は、妻が私の介護を一手に担い、付きっ切りで世話をしてくれました。しかし、小学生になったばかりの娘や幼稚園年少クラスの息子の育児や家事と、私の介護を両立できるはずもなく、彼女の心も体も壊れていきました。想像以上に早い病気の進行を目の当たりにして、あの頃はまさに生き地獄でした。しかしそれでもなお、私たちは介護者の手を借りることに抵抗があったのです。