“ロックンローヤー”が熱く語る 41歳で弁護士を目指した決意と「核なき生活」実現への執念
ロックと弁護士。関連のない2つのジャンルを見事に融合させたのが、ロック弁護士こと、島昭宏氏だ。本人はロック弁護士=ロックンローヤーを名乗る。環境問題や人権問題に興味を持ち、41歳の誕生日に法曹界に転じることを決意。国や大企業を相手に闘う環境事件は「バンド活動と共通する」と熱く語る。
■岡林信康を聴いてシビれた
1962年、名古屋生まれの61歳。音楽に目覚めたのはフォークソングがきっかけだったという。
「フォークソングが好きになったのは小学生の頃。吉田拓郎を聴いているうちに、強烈なメッセージを歌う岡林信康に惹かれ、反戦フォークに興味を持った。高校に入ると社会に対して問題提起を歌うパンクロックと出合って、イギリスの『ザ・クラッシュ』に凄く影響されたね。ロックで社会を変えたいと、バンドをやるようになったんですよ」
上京して早稲田大学に入学すると、さらにロック熱が過熱していった。1985年にロックバンド「the JUMPS」を結成し、ザ・ブルーハーツらと一緒にオムニバスのライブアルバム「JUST A BEAT SHOW 1986.3.8.YANEURA」を発表している。
だが、ロックンローラーとしての活動はそれなりに充実していたのに、41歳の誕生日、ふと思い立って16歳から始めたロックと「別の道」を模索したという。
「ロックで社会変革がしたいという当初の目的からすると、このままでは社会を1ミリも動かせないと気づいた。売れないバンドを最後までやり続けるだけでなく、もうひとつの武器を持ちたいと思うようになったんです」
ちょうどその頃、司法試験に環境法が新しい科目として設置された。「弁護士」というもうひとつの人生が見えてくる。
「小さい頃から環境問題に興味を持っていました。名古屋市南区近辺で育った僕は、柴田喘息という公害問題を目の当たりにしていました。また中学1年生の時に読んだ有吉佐和子の『複合汚染』に感銘を受けたんです。社会を変革したいというマインドがロックに目覚める前からあったんですよ」
さらに叔父さんである経済学者の長谷川啓之氏からも影響を受けた。小学生の頃、夏休みに東京の叔父さん宅に1週間ぐらい滞在すると、人間の存在をテーマにしたスウェーデンの巨匠イングマル・ベルイマンの映画を一緒に観賞するなど、文化的な啓蒙も大きかったという。
「狭山事件など同和問題をはじめとした差別に興味があり、けしからんと腹を立てていました」
小学生らしい正義感から結婚相手は同和の女性か韓国女性と親に宣言して驚かれたという。岡林信康の「手紙」の詞にも同様の内容がある。
■48歳に弁護士に…国や企業とも戦える
「弁護士になれば相手が国だろうが大企業であろうが闘える。しかも弁護士は何ものにもとらわれない。これはロックだと思い立って1年後にロースクールに通って、3年間必死に勉強して2回目で司法試験に合格しました」
2010年12月に弁護士登録をした。48歳だった。さっそく、翌年の2011年1月には日本の電力会社にCO²を削減させようと呼びかける「シロクマ弁護団」に加入するが、その2カ月後にあの出来事が起きる。福島での原子力発電所事故だ。弁護士になってすぐに自分のテーマである「環境」が社会に大きな変革をもたらすという機運を感じたようだ。
「原発事故がもたらしたのはエネルギー問題。これは社会構造や経済構造そのものに直結するから全力で取り組むべきテーマだと思った。原発は持続可能な社会にそぐわないという意識を浸透させ、さらに原発をつくらない社会を実現するために、原発のメーカーにも事故の責任を負わせることが、重要だと考えたのです」