無名の高卒新人・野茂は文句ひとつ言わないタフさがあった
公開競技だった野球は、日本に加え、米国、韓国、台湾、豪州、カナダ、オランダ、プエルトリコの8チームが参加。野茂は自身初の国際試合となった世界選手権でキューバ相手に堂々と真っ向勝負を挑み、4カ国対抗戦では豪州戦、カナダ戦の2試合に登板し、無失点に抑えた。代表経験の少なさを全く感じさせなかった。ソウル五輪では金メダルを逃したものの、野茂は予選の台湾戦、準決勝の韓国戦、決勝の米国戦でそれぞれ好投。投げるたびに成長し、また周囲の期待が高まる中でも、そうしたムードに惑わされることなく、実力を遺憾なく発揮した。環境にも食事にも文句ひとつ言わず、タフな選手だった。
■バルセロナ監督就任の経緯
翌89年、私は3年後の92年に行われるバルセロナ五輪の代表監督に就任した。海外で野球を経験するたびに目からウロコが落ちた。日本と海外の野球の違いはもちろん、スポーツの価値や魅力を知った。私にとって当たり前だった日本の野球は、海外から見れば異質だった。野球を通して世界中に仲間ができ、世界の野球をもっと知りたいと思っていた私に断る理由はなかった。大変な責任を負うことは分かっていたが、3年後に向けて挑戦したい気持ちが上回った。