元オリックス仰木彬監督が巨人を戦力外になった清原和博に“直電”し移籍を口説いた
■「おまえの最後の花道は俺がつくってやる」
仰木は1950年代後半の西鉄黄金期の二塁手として56年からの3年連続日本一に貢献。現役引退後は近鉄、オリックスを率いて3回の優勝を果たした。近鉄では投手コーチが修正を提案した野茂英雄の変則フォームを一切いじらせず、オリックスでは二軍でくすぶっていたイチローの才能をいち早く見抜いて一軍に抜擢するなど数多くの若手を育成したことでも知られる名将だ。
清原は西武時代、仰木が率いていた近鉄、オリックスとは何度も対戦していたが、直接面識はなかった。電話口の清原に向かって仰木が言った。
「おまえは大阪で育った人間や。大阪に帰ってこい。おまえの最後の花道は俺がつくってやる」
その後、仰木は何度も電話を入れ、そのたびに熱心に清原を口説いた。
2005年12月20日、清原はオリックスと契約、正式に入団が決定した。しかし、清原のオリックスのユニホーム姿を仰木は見ることができなかった。その直前の12月15日、仰木は肺がんで死去していたからである。
「もう少し早く決断してれば」
清原は今もそれを後悔しているという。
(清水一利/ライター)