オウム広報部長・荒木浩と監督自身の「対話」
「AGANAI 地下鉄サリン事件と私」
詩人エリオットに倣っていえば3月は残酷な月。3・11ばかりではない。20日は地下鉄サリン事件の日なのだ。
ただしあの事件の1年以上前から米国留学中だった筆者にとって事件は理解不能。直前の阪神・淡路大震災の映像の衝撃が強いだけに、異国で隔絶感がつのった。ネットが未発達でオウム真理教のことは未知に等しく、いまなおあの事件を境に日本社会から断絶されたような気分なのだ。
そんなわけのわからなさを改めてつくづく味わったのが、先週末の3月20日に封切られたドキュメンタリー映画「AGANAI 地下鉄サリン事件と私」である。
監督の、さかはらあつしはサリン事件の被害者。電通の社員だった彼は通勤中に事件に遭遇。重篤なダメージは免れたが、トラウマの後遺症で会社を辞め、渡米して経営学修士を取得。コンサルタント業のかたわら映画製作にもたずさわって今回が初の監督作となった。その内容がオウム(現アレフ)広報部長・荒木浩と監督自身の「対話」だ。
ふたりで監督の故郷へ旅しながら事件の「真相」に迫ろうとするが、M・ムーアの突撃取材とも「ゆきゆきて、神軍」の原一男流「極私的」アプローチとも違うもどかしさはぬぐえない。外からはうかがえぬ葛藤や痛苦を相手の心にかき立てようとする監督だが、荒木は記憶が欠けたかのように呆けたまま。その「先」が中ぶらりんなのだ。
事件当時20代の彼らは四半世紀後の今、被害と加害の立場で鏡像のように向き合っている。まるでひとつの人格が被害と加害に「解離」したかのようだ。
F・W・パトナム著「解離―若年期における病理と治療」(みすず書房 8000円+税)は、ベトナム戦争症候群の調査で著名な著者が青年期のトラウマで自己同一性障害をきたす解離を論じた重要な文献。はからずもそれを思い出す。 <生井英考>