束の間のタイムスリップ 文庫の時代小説特集
「謀聖 尼子経久伝」武内涼著
文庫本はいってみれば本のモバイルだ。モバイルがあればどこでもオフィスになるように、通勤の車内でも社員食堂の片隅でも、文庫本のページを開けばそこが書斎になる。ひととき、ちょっと前の時代にトリップしてみよう。
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1488年、尼子経久が出雲の国最強の三沢軍を破り、東出雲、奧出雲を平定した。以前から病で床についていた母が死に、経久は亡き母の枕元で読経をすませてから赤穴左京亮ら敗軍の将と顔を合わせる。
経久は左京亮に何のために戦っているかと尋ねた。「我が武名のため。赤穴家を守るため」という答えが返ってくると、「──小さいな」とつぶやき、「果報者とは、何か?」と問う。左京亮が「……わかりませぬ」と答えると、経久は「己れの全てを賭けられるものを見つけた者を、人は果報者と呼ぶ」と言った。
「一つの名、たった一つの家のためにはたらく? もったいない。そなたはもっと大きなるもののためにはたらける男ぞ」と。左京亮は生涯で初めての武者震いを感じた。
山陰・山陽11カ国を治め、大大名の大内家と戦った戦国武将の生涯を描く。
(講談社 1111円)
「迷宮の月」安部龍太郎著
天武天皇の遺志を引き継いだ藤原不比等の命により、701年、40年ぶりに遣唐使船が出立した。不比等の密命を受けた遣唐使粟田真人や従者山上憶良らを乗せた遣唐使船は、嵐に巻き込まれて破損し、那の津に引き返す。
修理を終えて1年半後、再び海に出るが、日本と唐が国交を結ぶのを警戒する新羅を避けて南路を行くことになった。すると、未知の南路を恐れて水夫や留学生、留学僧ら8人が脱走する騒ぎに。苦難を乗り越えてようやく入唐すると、対応したのは白村江の戦いで捕虜となった日本人の息子だと称する沈美麗という人物だった。
真人が上奏文を読み上げると、美麗は真人が意図的に唐の皇帝を欺こうとしたと指摘した。100年前の遣隋使の犯した過ちを繰り返そうとしている、と。
国の威信を懸けて唐に渡った遣唐使を描く歴史小説。
(新潮社 935円)
「星と龍」葉室麟著
楠木正成は幾度となく同じ夢を見た。南宋の宰相だった文天祥が、自分に仕えよと迫るフビライに、「わたしは天命を奉じる国に生まれた。蛮族に仕えるはわが天命ではない」と拒んで首をはねられる夢だ。それは正成が13歳のとき、漂泊の僧、無風に「王にはなれぬが、王を援ける相である。生涯にわたって夢を見続け、夢の中で死ぬだろう」と言われてからだ。その夢は正成のためにはならぬが天下万民のためになる夢で、しかもかなうと。
そのころ、楠木一族は鎌倉御家人の荘園領主と争いを繰り返す「悪党」だったのだが、正成は文天祥のような正しい生き方に引かれていた。「正成」という名のとおり、正しいことを成したいと考えていたのだ。
後に後醍醐天皇を助け、鎌倉幕府を倒して建武の新政を実現した楠木正成の生涯を描く。
(朝日新聞出版 880円)
「妖国の剣士」知野みさき著
東都の晃瑠に向かっていた17歳の女剣士、黒川夏野は、川で手拭いを濡らしていたとき、農村に似つかわしくないあか抜けた女に声をかけられた。近くに住む伊紗と名乗り、盗まれたものを取り戻すのを手伝ってほしいという。
石段の上の社の格子戸の中に手を入れると、餓鬼どもが隠したという竹筒があった。取り上げると中で音がする。だが、伊紗が鳥居の内側に足を踏み入れようとしないのを怪しんで、夏野は竹筒を渡さない。
振ると宝珠らしい音がしたのに、栓を抜いて竹筒を逆さにしても何も出てこず、伊紗がため息をもらした。月明かりが筒底を照らした瞬間、何かが閃光とともに夏野の左目に飛び込んだ。頭の中を焼き尽くすような痛みで、夏野は気を失う。
妖魔と闘う女剣士を描くファンタジー小説。
(角川春樹事務所 858円)
「北辰群盗録」佐々木譲著
江戸が東京に変わって6年後、浅草の飲み屋で飲んでいた矢島従太郎は隣席で飲んでいた男にケンカを売られた。近くの路地で殴り合いになり、相手が匕首を手にしたとき、洋服姿の男が薪を投げてくれた。その薪で相手の匕首をたたき落とし、ぶちのめしたところで、洋服の男が従太郎を止めた。その男は従太郎の名だけでなく、従太郎がかつて五稜郭で榎本武揚の部下として戦ったことも知っていた。
陸軍省参謀局の隅倉兵馬参謀少佐と名乗り、仕事を世話すると言う。従太郎が五稜郭でともに戦った兵頭俊作が蝦夷地で「共和国騎兵隊」を率いて、政府軍と戦いを続けている。その討伐作戦に加われというのだ。政府は彼らがロシアと手を組むのを恐れていた。
激動の時代に、「共和国」建国を夢みて戦った男たちを描く歴史小説。
(光文社 968円)