学生劇団で八嶋智人さんを見てTVに出ていくんだろうなと…
役者としての出発点は都立竹早高校(文京区小石川)の2年生のときだ。廃部寸前の演劇部から助っ人を頼まれたのがきっかけだった。
「当時の演劇部員はたったの5人。しかも、プロパーの演劇部員は部長ぐらいで、ひとりは生物学部、ひとりは水泳部といった具合。兼務で成り立つような部だったんです。で、いよいよ存続の危機という段階になって入部したことがこの世界の第一歩でした」
小手青年は演劇以外にもバスケット部、コーラス部、山岳部、そして、コンピューター研究同好会、果ては生徒会役員まで、あちこちの課外活動に呼ばれては顔を出すというフーテンの寅さんのような青春時代を送っていたという。そんな旺盛な好奇心を刺激したのが、秋の文化祭で寄せ集めの演劇部員で上演した鴻上尚史氏の戯曲「朝日のような夕日をつれて」だった。
「僕らが高校生だった90年代のはじめは小劇場ブームの流れをくんで、鴻上さんが旗揚げされた『第三舞台』など人気劇団のメンバーがテレビに出始めた頃でした。しかも当時は学生劇団もかなり活気があって、よく高校の演劇部宛てに招待状が届いたりしたので、しょっちゅう足を運んでたんです。50人も入れば蒸し風呂状態の小屋の中で、ちょっと年上の人たちが物凄い熱量で芝居をしている。その中でも特に印象的だったのが『カムカムミニキーナ』という劇団で、そこに出てきた八嶋智人さんを見て、こういう人が有名になってテレビに出ていくんだろうなって思ったし、実際に小劇場からの出世コースを目の当たりにしたんですよね」