絶対正しいと思う時ほど“都合のいいもの”しか見ていない
「D坂の殺人事件」江戸川乱歩著
昨年は谷崎潤一郎だけでなく、江戸川乱歩の没後50年でもあった。純文学の大谷崎に対して、大乱歩と呼ばれたように、まさに探偵小説(推理小説)界の文豪だ。推理小説といっても、ただの謎解きゲームに終わらず、人間研究にもなっているのが乱歩作品の魅力。中でも「D坂の殺人事件」は、かの名探偵・明智小五郎が初めて登場し、乱歩にプロの作家として歩むことを決意させた自信作のひとつだ。
東京のD坂にある古本屋で、美人の女房がある夜、主人のいない店番中に絞殺された。さまざまな状況証拠や証言にもかかわらず、警察の捜査は行き詰まるが、ともに遺体の第一発見者でもある「私」と明智小五郎という2人の男が、別々に推理を働かせ、事件の真相に迫っていく。
「私」は犯人の服の色に関する正反対の矛盾する証言の謎を論理的に解くことで、推論を組み立てる。それに対して明智は、「私」や警察が気にも留めなかった女の生傷に関するウエートレスの噂や古本屋の主人の話から、「人の心の奥底」へと分け入っていく。
一見、「私」の推理の方が論理的だが、軍配は明智に上がる。明智は自分の推理は「心理的」で、「私」のそれは「物質的」と述べるが、実は両者にはもっと根本的な違いがあるのだ。
「私」は、当時はエリートの工業学校の学生の証言、新聞記者を通じて知り得た警察の情報など、一般により客観的と見えるデータを重視し、無意識にそれにあてはまる情報を集めている。片や明智は、人間の観察や記憶の頼りなさ、いわばデータの信頼性を疑うところから推理を始めている。
今、歴史認識や原発問題など、自らの信じるデータのみを並べ、声高に自己の正しさを主張する言葉があふれている。しかし、自分は絶対に正しいと思うときほど、人は都合のいいものしか見ていない。自分の依拠するデータも時に疑い、無視していた人の話にも耳を傾けてみる。案外、自分の見ようとしなかった真相に気づけるものだ。